忘れ物はないね?

『忘却』とは、忘れ去ることである。
人は『忘れる』という能力がなければ、絶望で生きていけないそうだ。
しかし、私にはそれらの忘れ物が大変愛おしく、また、そういった忘却の 中に存在する、私がかつて此処に存在していた証拠のかけらのようなものが、
どこか遠いところへでも散らばって、ある日ひょっと誰かのしゃっくりを止めたり
犬に遠ぼえをさせたりできないか、などと思うのである。
だから、私はこの日記を書くことにする。
この日記はその日にあった笑えることや、怒れることや、
その日に思い出した面白いことや悲しいことを記すためにある。どんどん忘れていくTwitterはコチラ

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2011年03月25日(金)

先日のleteでのライヴで私にいただいたチャージバックは
Think the Earth基金に寄付しました。
詳細は3/21の日記を。
ご来場いただいたみなさま、どうもありがとうございました。
今後ももっと個人的なものも含めて、たとえ少額ずつでもできるかぎり継続しようと思います。
ちっぽけな、ほんの石のひとつだけど、石垣を支えるひとつになるのであれば。

それにしても、いろいろ、日記で自分の思うことをつらつら書いているけど、書いたそばから、なんか矛盾や自分の考えが日々いろんな情報や考え方にとらわれて、動いていたり、やっぱりわからなくなったりする。
これってただのキレイゴトか、と思ったりもして、耐えられなくなったりもする。

そんな中、NRBQのテリーがこちらのことを心配してくれている、とのメール。
アメリカではもう放射能汚染についての報道がとにかくすごくて、いまひとつそちらの様子がよくわからない、と。
心配してくれてうれしい。
でも、東京より、被災地のほうがとにかく大変、東京はとりあえず日常は送れているから大丈夫、と伝える。
この不安について言い出したら、大丈夫、というのは被災地も東京も、もっとつっこんでいうと、日本のどこにもないし。
でもその中で気持ちを保って日々を過ごしてくしかないからなあ。
またテリーに会いたいなあ。

[link:1251] 2011年03月25日(金) 21:57


2011年03月26日(土)夜のバス

自分の歌で申し訳ないけれど、「夜のバス」って歌がある。
この歌を作ったのは、もっと抽象的な、いってみれば人生?みたいなものを歌ったんだけど、今は、なにか実感として、ぼんやり、私たち、夜のバスに乗り合わせているみたいだ、思う。

こわがりな私たちをのせて、暗闇をどこまで走れるか、それはわたしたちにかかってる。

ほんとに大事なことはなかなか表には見えない、ってことは、ある程度、いろんなことを気にかけて年齢を重ねてきたヒトは、たいてい知ってると思う。
でも、だからと言って、普段から目をこらしてちゃんとじっと見極めるということをいつもいつもできてるわけじゃない。
暗いところには明るいところよりなおさら、ヘンテコなモノが潜んだり転がったりしてるし、暗闇だからそれも拾ってみるまでわかんなかったりもする。

だけど、この暗闇を、とりあえずどっかまで行かなきゃなんない今、とにかく自分の感覚を研ぎすますしかない。
たまたま乗り合わせた、それぞれ事情も考えもちがう人たちの話も聞きたいし話しもしたい。
時には「あ、ちがった」って判断をしちゃうこともあるかもしれないし、たまに、その、いわゆるヘンテコなものに魅力を感じてしまう自分もいて、自分ひとりでさえ、なかなか難儀だ。
でも、バスは刻々と進んでいるんだから、こちらもちがった、と思ったら、ちがった、といえばいい。
そうやって色々見たり聞いたり匂ったり考えたりまちがったりしても、その場その場で自分の責任で「自分の感覚に正直」でいられるようにしたい。
右でも左でも上でも下でも、どこか、自分の気持ちや感覚とは別のところへ区分けされるのはいちばんいや。
自尊心とか、そういうことではぜんぜんなくて。
知らないで巻き込まれてたり、意図せずおっとっと、と傾いたりするかもしれないにしても、それにちゃんと気がつける自分でいたいです。

でも、これが自分一人で歩いているのならまだいいんだけど、問題はこれが知らない人同士が乗り合わせたバスってところで。
あっちだ、いやこっちだ、って蛇行するし、これが正解だ、って道もない。
行き先だってイマイチ不明。
でも、これって人生と同じ。
そこに、ただ乗せられているんじゃなくて、「ちゃんと自分で乗ってる」ってことが重要なのです。
まずは静かに目を凝らそう、耳を澄まそう、と思う。


[link:1252] 2011年03月27日(日) 00:00


2011年04月10日(日)選択肢は自分でつくる

選挙へ行った。
正直、これまでの中で一番、「一票の大事さ」を感じた投票だった。
恥ずかしい話だけれど、たぶん、今回の震災に伴う一連のこの大変な状況がなければ、これほど、自分の選択について考えることはなかったかもしれない。
他にもそういう人がいるのか、たまたまかわからないが、投票所も、心無しか人が多かった気がする。
でも、中には「あえて棄権する」という人や、「別に行ってもなあ、興味ないし」という人もたくさんいるようだ。
まあ、人それぞれの考えなので、それをどうこうは言わない。
でもちょっと、投票に行かない人の気持ちをシミュレーションしてみようと思う。
仮に選挙に行かない人を、とっても大雑把だが、@まるっきり興味がなく、投票日すらいつか覚えてない人、Aまったく興味がないわけじゃないが、調べたり考えるのがめんどくさい人、B選びたい人がいないからあえて棄権すると主張する人、にざっくりわけてみたとする。
行くつもりだったのに、予期せぬ事態で行けなかった人、というのは、行けていたら行っているはずなのでここでは考えないことに。

まず、@。これは、私もあんまりヒトのことを言えず、今になって反省するものだけど、私も20代の頃なんかわりとそうだった。
とにかく自分のやりたいことはあったけれど、そのことと、世の中のつながりや結びつきはなんにも感じられなくて、ただ、やりたいことをやっていた。
どういうふうに思ってみても、なんだか政治は遠く、自分とはまるで関係のないところで動いているような気がしていた。
勿論、音楽で主張を叫ぶアーティストや役者さんや作家や、いろんな人がたくさんまわりにいて、そういうものをたくさん見たり聴いたり読んだりもしたけど、そこに、参加する自分の主張があったかといったら、ほぼなかったと思う。
何か、文化として、楽しめるか、自分が表現できるか、センスが好きか、その人が好きか、もっと言ってしまえば、そのすべてにおいて笑っていられるか、たぶんそれだけだ。
だから、そういうことと、自分が一票を投じることとは結局結びついていなくて、スルーしていた。
でも、年齢を経て、いろんなことを経験すると共に、それは自分がとても未熟だったと思うようになった。
少なくとも、「自分の生きている世界で、しかも、自分に発言権を与えられている世界で、”自分にはまったく関係ないこと”はない」と思うようになった。
今、こういう若い世代の人で、こういう感覚の人で、投票には行かない人がいたとしたら、それは私がそうだったように、自分で何かを実感として、「投票に行くことが大事だ」と思うようにならないと行くようにはならないと思うから、そういう人たちに一刻も早くそういう日がくることを祈るばかりだ。

次にA。ほんとにこういう人たちがいたとしたら、それはもう、めんどくさがらずにやんなさいよ、としかいいようがない。
でもひょっとすると、この中には「考えるのがめんどくさかっただけだけど、”あえて選ぶ人いないから入れない”」フリをする人もいるかもしれなくて、じゃあなぜそんなフリをするか、というと、「ほんとーに興味ナイ、またはまったくワカッテナイ奴」と思われるのも成人としてちょっと恥ずかしいなあ、って心のどこかで思っているからじゃないでしょうか。
だったら、素直にちゃんと考えたらいいのに。

で、B。これが私は一番わからない。まずテキトーに考えてみても素朴な疑問として浮かぶのが、「あえて棄権した」のに、その「あえて」というのがまったく伝わらず、「別に興味ないや」とか「政治のことわかんないし」っていう人と同じくくりになるのは、全然いやじゃないんだろうか。
私だったらいやだなあ。
「選びたい人がいないから、あえて、投票しない」というとっても強い信念があるような人が、「え〜〜〜、ぜんぜんわかんない。」「てか、どうでもいーし。」という人との区別がつけてもらえなくて平気なんだろうか?
で、こういう人の中には、「そもそもこの日本の政治の在り方、システムを認めない」という人がいると思うけど、規模をものすごく小さくしてつきつめると、例えばトランプで「七並べ」をしてるのに、「ええい、このルールは納得できん!オレがルールを作るんだ!」あるいは、「そもそもこの七並べって遊びをオレは認めないぞ!オレが新しく遊びを作ってやるぞ!」ということで、七並べに参加しない、みたいなことで、でもそんなに鼻息が荒かったとしても、それも結局、七並べをしている人から見れば、まわりで「七並べのルールがまったくわかんないから参加しない」で見てるだけの人や、「脇で一心不乱に漫画読んでる人」と十把一絡になっちゃうわけで、こうして考えるとますます、一人よがりな感じがしてくる。
脇で一心不乱に漫画読んでる人のほうがよほど自分に正直だ。
ほんとに新しいルールを作れてたり新しいゲームを作れるのなら作ったものを持って来ればいいから、持って来られないうちは、説得力はないし、その説得力を後々確かなものにする意気込みがあるのなら、それこそ今はこの七並べで最善の策を練り、勝つための作戦を考えたほうがいいんじゃないか。

最後に、「ほんとに自分の選びたい人がいない」という人には、もう少しだけ「想像する力」を持ってほしいと思う。
みんな、全部が全部、自分がなってほしいことにピッタリ合うものを選ぶわけじゃない。
誤解を恐れずにいうと、「消去法」だって、立派な選択の方法だと思う。
あ、これは例えばの話。今回の選挙についての話ではなくて、選択肢ってものの話になってしまうけれど。

で、ここまで投票に行かない人のことをあれこれ言い散らかしてみて、だからといって、この私の声がそういう人に届くとは思えないが、それでもそういう人に話しかけてみるならば、投票はやっぱり行ったほうがいいよ。
残念なことにもう今回は遅いけれど。

で、ここからは、その「選択」ってものの話になるけれど、世の中の選択肢って、目に見える部分では「具体的に与えられる」けれど、それを想像力を駆使して広げるのは自分だ。
目の前に出されたものを見るだけでは、どれも自分にはぴったりこない、ってことなんか、いくらでもある。
餡子キライなのに「大福とぜんざいとおはぎと赤福しかない」時どうするか。
お腹がいっぱいで、満たされていて、これからも自分を含めてまわりのすべての人が食べ物の心配をまるでなんにもする必要がない状態で、目の前に出されたもので食べたいものがなかったら「いま、いいです」という回答もするかもしれない。
でも、自分もお腹がものすごく空いている、まわりの人もみな空いている、今、幸運なことに、自分には食べ物を差し出され、わずかではあるけど選択する権利も与えられている。
食べ物は不足していて、まわりにはその食べ物を欲しくてももらえない人もたくさんおり、自分は今幸運な状況を与えられたけれど、この先は食べ物の心配をしなくてはいけない。でも、悲しいことに、差し出されたのはきらいな餡子モノばっかり。

私だったら、とにかく何かを選ぶ。
「とりあえずこの中で一番食べれる赤福」あるいは「もうどっちみち嫌いだから味とか関係ナシ、体に水分もとれそうなぜんざい」または「自分が半分ぐらい食べたとしても、○○ちゃんがコレ好きだって言ってたから、後であげるとしたら大福」「今わたしがコレをとらなければ、おはぎは私の大嫌いなアイツにとられてしまうかも」「大福を残したら、腐ってしまう」
純粋であれ、不純であれ(まあできるだけ誰かを陥れるとか、負の方向の動機でないほうがいいに決まってるが)、選ぶ基準は人それぞれだと思うし、考えればキリがないほど、選択の理由はある。
考えすぎてわからなくなって、コインで決めたい、と思うかもしれない。
本当にどれでもよくて、どれになっても何も後悔しないのなら、コインもひとつの方法だ。
コインに行き着くまでに考えることが大事だ。
ひとつでも「コレはいや」と思うものがあれば、コインでは決められないもの。それだけでも重要だ。
これ以外だったらなんでもいい、というのも、そこにひとつの意思があるからには、そのイヤなものにならないように考えて、別のものを選ばないといけない。

つまるところ、『選択』というのは、勿論その背景をちゃんと考えて、納得するまで調べ、考えるのが大事だけど、それ以前に、そんなに難しいことじゃなくて、きっと自分にとっては一番シンプルでうんと本能的な心の動きなんだと思う。
目の前に与えられた具体的なものだけ見て、選びたいものがないから、というのは選択肢を自分で狭めて捨てることだ、と思う。
選びたいものがない時こそ、迷う時こそ、なんで自分が迷うのか、なんで選びたくないのか考えたらいいと思う。
餡子が嫌いだからどれも選びたくない、ちぇっ、生クリームがよかったなあ、というんなら、じゃあ後々中身を自分の好きな生クリームに変えることを考えると、ぜんざいムリ、おはぎムリ、赤福ビミョー、大福だったらあり得るかも、でとりあえずここは大福。でいいんじゃないでしょうか。

その選択の繰り返しで、人は本能的に自分の行きたい方へすこーしずつ、すこーしずつ近づいて行こうとする、と思うのです。
長くかかるかもしれないし、思い通りにはなかなかならないし、保障もなくてモドカシイかもしれない。
人と自分が違うことも思い知らされるかもしれない。
でも、生きている以上、それはやっていく価値があると思う。
選択肢の中に本当に選びたいものがある時はそれは喜ばしい。
でも選びたいものがない時こそ、シャッターを下ろすのではなくて、自分の本能と想像力にしたがって、その後ろにある扉をあけなきゃいけない。そうすると、今まで見えてなかった選択肢も見えてくると思う。

[link:1253] 2011年04月11日(月) 00:27


2011年05月23日(月)

ずいぶんサボってしまいました。
厳密には、アップしようかどうしようか迷ったままアップしなかった日記がいくつか。
でもそれももう迷った時点で、やっぱり公表はやめることにしようと思ってそのまま。

まだいろいろ大変だけど、東京の日常は少し落ち着いてきました。

震災以降、自分で歌うのに作るのでもお引き受けして作るのでも、とにかく自分が作る音楽に関して、ほんとに色々考えたしいろんなことを思った。
こういうのっていいんだろうか?とか、こんなこと私が歌ったところで何になるんだろう?とか、そもそも、「もうどんなに表そうとしても表し尽くせない何か」みたいなものが広がっていて、やってもやっても、もう何かを言ったり伝えたり表現したりできないんじゃないか、と思って、一時は気持ちが呆然となったりもした。
誤解を恐れずにいえば、そもそも音楽なんて無駄なものだものなあ、ってのをグリグリ思い知ったし(だからこそ必要なものだ、ってのもわかってはいるんだけど、この場合人の生死に直接かかわることじゃないし、って意味ですよ)。

で、今。
何かが劇的に前進したりしたわけではないし、むしろ、厳しい現実を受け止めはじめた今、その、「やってもやっても表し尽くせない何か」がある気持ちは変わらないのだけど、そもそも「音楽」っていう、「命にはかかわらない、言ってみれば無駄なもの」を作っている以上は、「無駄である甲斐」がなきゃな、って思うようになった。
自分のことをイメージしてみると、例えば私を作っている100%のうちの50%ぐらいが実際に生死にかかわることだったり仕事だったりするとしたら、残りの50%ぐらいは、無数の無駄な、でも私にとってはとても大事な無駄なものでできてるような気がするから。いや、私の場合はもっとかもしれないな。
ほぼ、無駄なものでできている、と言っても過言ではない気がする。
人によって、その割合は違うでしょうけど、無駄が1%もない、という人なんかいないでしょう。
一瞬笑ったけど、忘れちゃったら忘れちゃったで、それはそれでいいや、ってぐらいのもの。いつか思い出すかもしれないし、思い出さないかもしれないぐらいのもの。意識の外の、脳の外側ぐらいに知らないうちにハサハサと積もっていく埃のようなもの。
無駄なことは無駄であってこそナンボのものなんだから、全力で無駄であるべきでしょう。

いや、別にそんな大げさなことじゃなくて、私が音楽を作り演奏し歌ったところで何も変わらないと思うし、(まして誰かを癒すとか気持ちを楽にできるとか元気をどうのこうの、とはまったく思わないし、)たぶん自分で、自分が音楽を作らずにはいられない理由が、後付けでもいいからほしいだけだと思うけど、ただ、その無駄のひとつであるしかない以上、相当無駄なほうがいい。
無駄は無駄の役割をまっとうしたいものだ、と思うのです。
ゲラゲラ笑った後に、なんであんなにおかしかったんだろ?って思ったり、あんなに怒ったのにどうしても思い出せなかったりするケンカなんかとおんなじように、どんどん忘れていってもらって構わない。
でも作ります。
この世に積もった塵のひとつです。

[link:1255] 2011年05月31日(火) 02:24


2011年05月31日(火)

leteのライヴにお運びくださいましたみなさま、ほんとうにありがとうございました。
この日は台風!足元激悪!みなさんびしょ濡れになられたでしょう。ごめんなさい。
遠くや近くから、いつも来てくださる方、何十年もの時間を経て来てくださった方が駆けつけてくださってほんとうにうれしかった。
あちこちでそれぞれに時間も場所もまったくちがった形で出会った方々と、ひろーーーい宇宙の中のこの星の、この東京の、ある街のちいさな場所で時間を一緒に過ごせる、というのは、考えれば考えるほど不思議で面白くて、涙が出るほど愛おしくうれしいことであるなー、と思います。
人というのは生まれて死ぬ、というまったく止まらない生き物だから、そのまったく止まらない生き物が何十億といて、それらがそれぞれまったくちがう時を流動しながら過ごしているのだから、その無常である様は、なんと確信がなくて、なんと所在なく、なんと実体がなく、あてにもならないことか、と思うけれど、それなのに、そういうものものが、ある時ある場所で同じ瞬間を見たり聴いたり笑ったり感じたりっできるってことが、もうそれ自体奇跡なわけで、すれ違い、行き交い、違う断面で動いているすべてのものの中で、その欠片同士が、「またここで会いましょう」なんていって、また本当にここで会えるなんて、ほんとにすごいことだと思うのです。
そう思えばこそ、人は、「約束」なんていうもっとも頼りない合図も、「まだまだ捨てたもんじゃないぞ」と思っては、何度もするんだろうし、それこそが、この世を歩く醍醐味だと思うのです。

と、ああ、つい話が広がってしまいましたが、そういう愛おしい瞬間を一緒に過ごしてくださる人々と場所があって、私はとてもしあわせです。

それと同時に、その人や人や人や人がそれぞれのちがった場所と時にいても、その人々それぞれの時間の中や暮らしの中で、道を歩いていても、電車に乗っていても、お洗濯を干していても、窓にほおづえをついていても、勉強をしていても、手紙を書いていても、いつかどこかで会った人や顔や歌や声や話や溜息を、ふと浮かべて、気持ちがぎゅっとなったりふっくらしたりしていたらいいなあと思います。
そして私も私の出会っているたくさんの大事な人やモノや景色を浮かべては、私の歌や音楽もそういう人やモノや景色の雑念の一つになっていたいなあ、といつも思っています。
みなさん、本当にどうもありがとう。
心からありがとうございます。

[link:1256] 2011年07月06日(水) 23:10

2003年6月16日までの日記


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