忘れ物はないね?:2011-04-10

『忘却』とは、忘れ去ることである。
人は『忘れる』という能力がなければ、絶望で生きていけないそうだ。
しかし、私にはそれらの忘れ物が大変愛おしく、また、そういった忘却の 中に存在する、私がかつて此処に存在していた証拠のかけらのようなものが、
どこか遠いところへでも散らばって、ある日ひょっと誰かのしゃっくりを止めたり
犬に遠ぼえをさせたりできないか、などと思うのである。
だから、私はこの日記を書くことにする。
この日記はその日にあった笑えることや、怒れることや、
その日に思い出した面白いことや悲しいことを記すためにある。どんどん忘れていくTwitterはコチラ

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2011年04月10日(日)選択肢は自分でつくる

選挙へ行った。
正直、これまでの中で一番、「一票の大事さ」を感じた投票だった。
恥ずかしい話だけれど、たぶん、今回の震災に伴う一連のこの大変な状況がなければ、これほど、自分の選択について考えることはなかったかもしれない。
他にもそういう人がいるのか、たまたまかわからないが、投票所も、心無しか人が多かった気がする。
でも、中には「あえて棄権する」という人や、「別に行ってもなあ、興味ないし」という人もたくさんいるようだ。
まあ、人それぞれの考えなので、それをどうこうは言わない。
でもちょっと、投票に行かない人の気持ちをシミュレーションしてみようと思う。
仮に選挙に行かない人を、とっても大雑把だが、@まるっきり興味がなく、投票日すらいつか覚えてない人、Aまったく興味がないわけじゃないが、調べたり考えるのがめんどくさい人、B選びたい人がいないからあえて棄権すると主張する人、にざっくりわけてみたとする。
行くつもりだったのに、予期せぬ事態で行けなかった人、というのは、行けていたら行っているはずなのでここでは考えないことに。

まず、@。これは、私もあんまりヒトのことを言えず、今になって反省するものだけど、私も20代の頃なんかわりとそうだった。
とにかく自分のやりたいことはあったけれど、そのことと、世の中のつながりや結びつきはなんにも感じられなくて、ただ、やりたいことをやっていた。
どういうふうに思ってみても、なんだか政治は遠く、自分とはまるで関係のないところで動いているような気がしていた。
勿論、音楽で主張を叫ぶアーティストや役者さんや作家や、いろんな人がたくさんまわりにいて、そういうものをたくさん見たり聴いたり読んだりもしたけど、そこに、参加する自分の主張があったかといったら、ほぼなかったと思う。
何か、文化として、楽しめるか、自分が表現できるか、センスが好きか、その人が好きか、もっと言ってしまえば、そのすべてにおいて笑っていられるか、たぶんそれだけだ。
だから、そういうことと、自分が一票を投じることとは結局結びついていなくて、スルーしていた。
でも、年齢を経て、いろんなことを経験すると共に、それは自分がとても未熟だったと思うようになった。
少なくとも、「自分の生きている世界で、しかも、自分に発言権を与えられている世界で、”自分にはまったく関係ないこと”はない」と思うようになった。
今、こういう若い世代の人で、こういう感覚の人で、投票には行かない人がいたとしたら、それは私がそうだったように、自分で何かを実感として、「投票に行くことが大事だ」と思うようにならないと行くようにはならないと思うから、そういう人たちに一刻も早くそういう日がくることを祈るばかりだ。

次にA。ほんとにこういう人たちがいたとしたら、それはもう、めんどくさがらずにやんなさいよ、としかいいようがない。
でもひょっとすると、この中には「考えるのがめんどくさかっただけだけど、”あえて選ぶ人いないから入れない”」フリをする人もいるかもしれなくて、じゃあなぜそんなフリをするか、というと、「ほんとーに興味ナイ、またはまったくワカッテナイ奴」と思われるのも成人としてちょっと恥ずかしいなあ、って心のどこかで思っているからじゃないでしょうか。
だったら、素直にちゃんと考えたらいいのに。

で、B。これが私は一番わからない。まずテキトーに考えてみても素朴な疑問として浮かぶのが、「あえて棄権した」のに、その「あえて」というのがまったく伝わらず、「別に興味ないや」とか「政治のことわかんないし」っていう人と同じくくりになるのは、全然いやじゃないんだろうか。
私だったらいやだなあ。
「選びたい人がいないから、あえて、投票しない」というとっても強い信念があるような人が、「え〜〜〜、ぜんぜんわかんない。」「てか、どうでもいーし。」という人との区別がつけてもらえなくて平気なんだろうか?
で、こういう人の中には、「そもそもこの日本の政治の在り方、システムを認めない」という人がいると思うけど、規模をものすごく小さくしてつきつめると、例えばトランプで「七並べ」をしてるのに、「ええい、このルールは納得できん!オレがルールを作るんだ!」あるいは、「そもそもこの七並べって遊びをオレは認めないぞ!オレが新しく遊びを作ってやるぞ!」ということで、七並べに参加しない、みたいなことで、でもそんなに鼻息が荒かったとしても、それも結局、七並べをしている人から見れば、まわりで「七並べのルールがまったくわかんないから参加しない」で見てるだけの人や、「脇で一心不乱に漫画読んでる人」と十把一絡になっちゃうわけで、こうして考えるとますます、一人よがりな感じがしてくる。
脇で一心不乱に漫画読んでる人のほうがよほど自分に正直だ。
ほんとに新しいルールを作れてたり新しいゲームを作れるのなら作ったものを持って来ればいいから、持って来られないうちは、説得力はないし、その説得力を後々確かなものにする意気込みがあるのなら、それこそ今はこの七並べで最善の策を練り、勝つための作戦を考えたほうがいいんじゃないか。

最後に、「ほんとに自分の選びたい人がいない」という人には、もう少しだけ「想像する力」を持ってほしいと思う。
みんな、全部が全部、自分がなってほしいことにピッタリ合うものを選ぶわけじゃない。
誤解を恐れずにいうと、「消去法」だって、立派な選択の方法だと思う。
あ、これは例えばの話。今回の選挙についての話ではなくて、選択肢ってものの話になってしまうけれど。

で、ここまで投票に行かない人のことをあれこれ言い散らかしてみて、だからといって、この私の声がそういう人に届くとは思えないが、それでもそういう人に話しかけてみるならば、投票はやっぱり行ったほうがいいよ。
残念なことにもう今回は遅いけれど。

で、ここからは、その「選択」ってものの話になるけれど、世の中の選択肢って、目に見える部分では「具体的に与えられる」けれど、それを想像力を駆使して広げるのは自分だ。
目の前に出されたものを見るだけでは、どれも自分にはぴったりこない、ってことなんか、いくらでもある。
餡子キライなのに「大福とぜんざいとおはぎと赤福しかない」時どうするか。
お腹がいっぱいで、満たされていて、これからも自分を含めてまわりのすべての人が食べ物の心配をまるでなんにもする必要がない状態で、目の前に出されたもので食べたいものがなかったら「いま、いいです」という回答もするかもしれない。
でも、自分もお腹がものすごく空いている、まわりの人もみな空いている、今、幸運なことに、自分には食べ物を差し出され、わずかではあるけど選択する権利も与えられている。
食べ物は不足していて、まわりにはその食べ物を欲しくてももらえない人もたくさんおり、自分は今幸運な状況を与えられたけれど、この先は食べ物の心配をしなくてはいけない。でも、悲しいことに、差し出されたのはきらいな餡子モノばっかり。

私だったら、とにかく何かを選ぶ。
「とりあえずこの中で一番食べれる赤福」あるいは「もうどっちみち嫌いだから味とか関係ナシ、体に水分もとれそうなぜんざい」または「自分が半分ぐらい食べたとしても、○○ちゃんがコレ好きだって言ってたから、後であげるとしたら大福」「今わたしがコレをとらなければ、おはぎは私の大嫌いなアイツにとられてしまうかも」「大福を残したら、腐ってしまう」
純粋であれ、不純であれ(まあできるだけ誰かを陥れるとか、負の方向の動機でないほうがいいに決まってるが)、選ぶ基準は人それぞれだと思うし、考えればキリがないほど、選択の理由はある。
考えすぎてわからなくなって、コインで決めたい、と思うかもしれない。
本当にどれでもよくて、どれになっても何も後悔しないのなら、コインもひとつの方法だ。
コインに行き着くまでに考えることが大事だ。
ひとつでも「コレはいや」と思うものがあれば、コインでは決められないもの。それだけでも重要だ。
これ以外だったらなんでもいい、というのも、そこにひとつの意思があるからには、そのイヤなものにならないように考えて、別のものを選ばないといけない。

つまるところ、『選択』というのは、勿論その背景をちゃんと考えて、納得するまで調べ、考えるのが大事だけど、それ以前に、そんなに難しいことじゃなくて、きっと自分にとっては一番シンプルでうんと本能的な心の動きなんだと思う。
目の前に与えられた具体的なものだけ見て、選びたいものがないから、というのは選択肢を自分で狭めて捨てることだ、と思う。
選びたいものがない時こそ、迷う時こそ、なんで自分が迷うのか、なんで選びたくないのか考えたらいいと思う。
餡子が嫌いだからどれも選びたくない、ちぇっ、生クリームがよかったなあ、というんなら、じゃあ後々中身を自分の好きな生クリームに変えることを考えると、ぜんざいムリ、おはぎムリ、赤福ビミョー、大福だったらあり得るかも、でとりあえずここは大福。でいいんじゃないでしょうか。

その選択の繰り返しで、人は本能的に自分の行きたい方へすこーしずつ、すこーしずつ近づいて行こうとする、と思うのです。
長くかかるかもしれないし、思い通りにはなかなかならないし、保障もなくてモドカシイかもしれない。
人と自分が違うことも思い知らされるかもしれない。
でも、生きている以上、それはやっていく価値があると思う。
選択肢の中に本当に選びたいものがある時はそれは喜ばしい。
でも選びたいものがない時こそ、シャッターを下ろすのではなくて、自分の本能と想像力にしたがって、その後ろにある扉をあけなきゃいけない。そうすると、今まで見えてなかった選択肢も見えてくると思う。

[link:1253] 2011年04月11日(月) 00:27

2003年6月16日までの日記


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