忘れ物はないね?:2005-03-11

『忘却』とは、忘れ去ることである。
人は『忘れる』という能力がなければ、絶望で生きていけないそうだ。
しかし、私にはそれらの忘れ物が大変愛おしく、また、そういった忘却の 中に存在する、私がかつて此処に存在していた証拠のかけらのようなものが、
どこか遠いところへでも散らばって、ある日ひょっと誰かのしゃっくりを止めたり
犬に遠ぼえをさせたりできないか、などと思うのである。
だから、私はこの日記を書くことにする。
この日記はその日にあった笑えることや、怒れることや、
その日に思い出した面白いことや悲しいことを記すためにある。どんどん忘れていくTwitterはコチラ

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2005年03月11日(金)

銀座方面へお出かけ。銀座は昨年暮れにMacが動かなくなってアップルストアへ泣きながら持っていって以来。
大好きな洋服屋さんの春物をチェック(しただけ)。うーん、かわいい。ほしい。洋服でこういうアプローチは今までやっぱりあんまり見たことなかったよなー、とつくづく感心する。
その後、近くの画廊でふるーいふるーい友人の東京での初個展が催されているのをのぞきに行く。たまに銀座の画廊でグループ展をしていたことは知っていたが、実際にはもう10年ぐらい会っていないのでひょっとして顔すら忘れられているかもしれなくて(←それは大げさ)どうしようか迷ったが、初個展だし、まあ本人がいなくてもやっぱり作品だけでも観て帰ろうと思って寄ってみた。
そしたらたまたま会場にご当人がいて、意外なほどあっさり気がついてくれた。昔から難しい分野に取り組んでいた人が、その信念を曲げずに今日に至り、少しずつでも活躍の場を着実に広げているのを知るのはうれしい。しかし相変わらずわかりづらい絵で(ごめん)、その場にいた2〜3人の人が皆「水面」だと思って見ていたのが「芝生」だったり、「木」をえらい人に「この建物」と言われたりしていて、それも含めて、面白かった。少し話して、キャラメルをもらって帰宅。

「よいもの」つまり「それを生み出す気持ちがちゃんとつまっているもの」は、ちゃんとそれを見る人を惹き付けるつける力を持っていることがよくわかった日。でも実際そういうものを見ると、どういう感想を言ってよいのかよくわからない。そして何度も何度も見てしまう。見たすぐは、ついそれが欲しくなってしまうけども、何度も見ているうちにだんだん「それがそこでその良さを放っていてくれていればそれでよい」ような気分になってくる。昔はちょっと違ったのだけど、最近は「またしかるべきタイミングが来てまたそれらに出会えるんなら出会えるだろう」などと思うにもなってきた(←という割には日頃のくだらない物欲のなんと強いことよ)。しかし、そんなこと思っていたらそういうモノを生み出している側にしかるべきお金が行かないことになってしまうので、ということはやっぱり『コレダ!』というものにはどんどんお金を使うべきだね、みたいな心の声も聞こえてくるし、だんだんよくわからなくなってきたなあ。
まあそれはさておき、私の作る音楽も、私のそれを作る気持ちが聴いてくれる人にたとえ「なんとなく」でも伝わればいいなあ、と改めて思った。

それはそうと、日比谷でちゃんと降りてたしか改札も通通ったはずだが、外に出てからも切符を持っていることに気がついて驚いた。うろうろと出口をさがしてさまよっているうちになんとなく出て来ちゃったのでしょうか?

[link:403] 2005年03月12日(土) 14:52

2003年6月16日までの日記


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