忘れ物はないね?

『忘却』とは、忘れ去ることである。
人は『忘れる』という能力がなければ、絶望で生きていけないそうだ。
しかし、私にはそれらの忘れ物が大変愛おしく、また、そういった忘却の 中に存在する、私がかつて此処に存在していた証拠のかけらのようなものが、
どこか遠いところへでも散らばって、ある日ひょっと誰かのしゃっくりを止めたり
犬に遠ぼえをさせたりできないか、などと思うのである。
だから、私はこの日記を書くことにする。
この日記はその日にあった笑えることや、怒れることや、
その日に思い出した面白いことや悲しいことを記すためにある。どんどん忘れていくTwitterはコチラ

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2008年02月04日(月)

ここ数日のうちに、1月終了、ハガキ入稿、タマコウォルズ観戦、大雪、節分、あたらしい電子レンジ、新たな挑戦のお話、といろんなことがありました。
1月は終わったけど、思ったとおり、まだお鏡餅は食べれていません。冷凍庫にはまだ入れてないけど。
タマコウォルズはまたもやすさまじいステージ。ゲストの直枝さんも驚くような日本人離れしたグルーヴと泥臭さ。直枝さんは直枝さんでさすがだった。
観る前はステージ前面に並んだ3人のギタリストを想像して、ひょっとするとカーネーションの幻のようなものを観るような部分があるかも. . . .と思っていたのですが、どっこいそれはやっぱりまちがっていた。カーネーションの曲をやっても、そこに『カーネーションの人』『カーネーションだった人』『カーネーションにかかわる人』がどれだけいても、やはりそれは『タマコウォルズと直枝政広氏による』新しいステージだった(当たり前だけど)。もちろん最高にいい意味で。
ほんの少しだけだけど、カーネーションというバンドを観たり知ったりしている者として、それはそれは何か、すごいものを観てしまったと思った。それと同時に長く変わらないものも、変わっていくものも、それぞれ、なにひとつ動いていないものはないと思った。いろいろなものは『動いていくから変わる』のだけど、変わらないものも『動きながら変わらないでいる』のだなあ、と。自分にも置き換えてみたりして。まあ置き換えてみたところで、そんな『超一流いぶし銀のやんちゃくれ』な人々の前では、私なぞはただ偶然居合わせた駄菓子屋の隅っこでお団子の串を喉につまらせている近所の洟垂れっ子のようなものですが。
しかしそんな私も含め、音楽家という人々は、そうやって今もどんどん湧いては消えていく自分の感覚を、一生懸命音楽という『空気の振動』に変えているのですねえ。

春になって、またあたらしい挑戦のお話が湧き上がってきました。またちゃんとお知らせできる時が来たらお知らせします。


[link:953] 2008年02月10日(日) 00:50


2008年01月29日(火)

お家に寝かせてあった件の宿題などに取り組む。
実はこのあいだ、「レンジでパスタが茹でられるケース」というのを購入してみた。パスタを作る時に鍋で茹でなくてもいいと、フライパン一個で済むので、簡単に作りたい時はさぞ便利だろうと思い購入したのだ。それは細長いケースに水を入れてパスタを入れてレンジにセットし、鍋でゆでるより何分か余分に加熱する、というもの。チン!となったら、湯切り口のついたフタをしめて湯切りをしてフライパンへ。
さて、ずっと使うのを楽しみにしていて、やっと本日初試みとなったのですが、加熱時間があと4分ぐらいか、と思ってレンジの側を離れ、体感2分ぐらいした時「パッ」という密かな音が聞こえた。けども、たいして気にも留めず、それからニュースに気が行ってしまって、気がついたら、「待てよ、いくらなんでももう7分ぐらい経ってるんじゃ?と思いレンジへ行ってみると、そこにはまったくどこにも点灯部分がない真っ暗なレンジがあり、そして中のケースにはややふやけた気味のパスタがぼんやり沈んでいた。どうやらあの「パッ」という音を最後にレンジがこと切れてしまったようだった。整理すると、私のパスタは、その時点で加熱完了までの残り時間4分、マイナス2分(「パッ」の時間)、イコール2分。つまりおよそ2分を残した時点でレンジが突然動かなくなったが、時間はすでに7分経っていたので2分プラス余分の3分(私がニュースに気をとられていた時間)はお湯の中にただ沈んでいたことになる。
レンジはもう呼んでも押しても何も点灯しないし動きもしない。
ちょっと前から、なんとなく様子がおかしかったレンジ。連続して使うと2回目以降ぜんぜんごはんがあったまらなったレンジ。
けど、なんでよりによって今日なのか。せめて最後までパスタ茹でてってくれよ!
というわけで、今日は「パスタ茹でるケース」がどうだったか、という問題でなく、「微妙に芯が残ったままお湯でふやけたパスタをどのようにおいしくするか」、という難しい難題が浮上し、そこに意識が集中してしまった夕食でした。
さよなら電子レンジ。今までありがとう。


[link:952] 2008年02月04日(月) 23:55


2008年01月28日(月)

やらねばならないことが二つほど気にかかっているが、どちらも思ったようにサクサクとは進まぬのであった。
そんなところへカジタのともちゃんが東京に来ていたので、とりあえずそれらを寝かせておいて、ともちゃんとデートに繰り出したのだ。
カジタのともちゃんとは名古屋のcoffee kajitaのかじやんの奥さん。かじやんは、私が昔やっていたバンド「ザボンドボン」のベーシストだった人で、今は名古屋でcoffee kajitaというお店をやっている。コーヒーカジタはかじやんがコーヒー、ともちゃんがお菓子のことをそれぞれ全てやっていて、大人気店になった今も二人でがんばっているが、コーヒーもお菓子もほんとうに手抜きがなくて、すごくおいしい。
ともちゃんはいつもにこにこと静かなかわいい人だが、その中はものすごくしっかりとした芯がまっすぐ通っていて、いつもよく考え、試し、自分の思ったことはぐいぐいと実行していってしまう行動力あふれる努力家で、まったくいつも感心しつつ、尊敬してしまうのだ。
そんなともちゃんと、まず谷中のベンチでケーキ食べ比べ大会をしてから、そのみつへ行き、その後谷中銀座を通って駅へ戻り、広尾のベトナム料理屋さんkitchenへ行きました。うーん、そのみつさんはなんて素敵な靴屋さんなんだ!kitchenもちいさなお店だけど満員で、どれもすごくおいしかった。
ベトナム料理って好きだなー。辛いのがめっぽう弱くなってしまった最近はタイ料理より自分に合ってる気がします。何を食べても爽やかな味がフとするところも好きです。

普段、家で仕事していると仕事とお休みの境界があるようでないようでフニャフニャだし、好きなことと仕事の境界もモヤモヤなので、こんなふうにお友達からガッと「おでかけモード」に引っ張り出してもらえるのは楽しい。

[link:951] 2008年01月30日(水) 01:13


2008年01月25日(金)みなさまどうもありがとうございました。

さて、日付がかわってもう昨日になりますが、下北沢leteへお越し下さったみなさまどうもありがとうございました。
いやはや、今日はいろんな意味で嵐のようなライヴでございました。こういう素っ裸になるライヴをやると、自分の未熟さがこたえます。今日はのっけから最後の最後までスットコドッコイ神が降りてきていたような。その神にボッコボコにやられたような。
みなさまにはお見苦しい点が多々あり、お詫びいたします。
しかしそれにしても、はだかさんはさすがのステージでした。
ピン芸人として見習うべきとこだらけです。
加藤千晶、だいぶ前から精進しているのですが、まだまだし足りないので今後もまっしぐらに精進してまいる所存です。
みなさまどうぞよろしくお願いします。
まずはお礼まで。


[link:950] 2008年01月29日(火) 23:32


2008年01月21日(月)

今日は大寒。もうすぐ終わりですけど。寒い寒い。
ピアノの弾く手がかじかみます。
レーゾーコに食べるものがなくなりお買い物へ行く。
野菜は少し離れたところに房総半島の農家が減農薬で作っているのを直売しているところがあるので、できるだけそこで買う。このあいだ朝採りのイチゴがあって、たまたま買ったらびーっくりするほどおいしかったので、またイチゴを買おうと思ったら売り切れでした。やっぱりみなさんよくご存知です。あんなにおいしいイチゴ、できることならお友達みんなに買ってってあげたい衝動にかられますけど、なんせナマモノなので残念。
ホーレンソウのおひたしに凝っている。
ユズを刻んでいれるとおいしいのね。
あと何気にキンピラもブームで。日本食バンザイ。
このあいだ鳥の水炊きっつーののほんとにおいしいのを食べることができました。といっても、ウチで作ったんだけど、コツはものすごく簡単で、土鍋に水が沸騰したら手羽を入れて30分、それからモモを入れて30分。で火をとめて30分おいてから再びあっためて食べる。その後野菜やつくねも入れて、ゆずこしょうとかポン酢でフーフーいただくのであります(これ、ためしてガッテンで見た。)鳥ってほんとにすごいね。あんなにお出汁が出るのに本体もほぐほぐに柔らかくておいしくなるなんて。

鳥の水炊きといえば思い出すのが、かれこれ15年ぐらい前に行った宮沢賢治祭だ。毎年、岩手の花巻でひーーっそりと行われる。
しかし祭、とはいっても、印象としていわゆる『祭り』というのとはかなりちがう。まず『祭り』いうような浮き足立ったムードはない。というか一般的な『祭り』ではなく、本当に『賢治まつり』でした。(どうやら当時は宮沢賢治学会が行われる日の夜に祭りが開催されていたようです。現在はどういうことになっているか知りませんが。)
地元の小さな神社でそれは催されていました。祭りというのに夜店や屋台も出ないまま、来ているのは地元の人と、圧倒的な賢治フリーク(私はそうではない。また、ここでは便宜上乱用しているが、宮沢賢治を『賢治』と呼ぶこともなぜか気恥ずかしい。いや、宮沢賢治は素晴らしいと思うが。)。たいまつの燃える境内で寒さに震えながら、何が始まるかと思いきや、地元の子供会が賢治の劇を上演。その後、婦人会の人が朗読をしたり鹿踊りをしたり、合唱をしたりという、リアルに賢治トリビュート祭りで、その場に出演者やその知り合いにも誰にも顔見知りがなく、宮沢賢治作品の一片を人前で空で言えないレベルの見学者は、その朗読や合唱をただぼんやり見る、という大変マニアなそして学術的な催しであったのでした。
ともあれ、私と友達は賢治フリークでもなんでもないけども、面白そうだったので行ってみた。しかし、その祭りが開催される神社は観光地でもなんでもないところにポツンとあるので、その近くに一軒だけある民宿は、つまり『その客専用』であり、したがって、逆にいえば、その民宿にその日宿泊している人は全員賢治フリークと見なされてしまうという当然といえば当然な暗黙の了解が存在していました。否、客ばかりか、民宿の人も祭りに行くのですね。だから、その日、夕食の時間に食堂へ行くと、テーブルの上に貼り紙がしてあり、『今夜は祭りに行きますので鳥の水炊きです。コンロにかかっている鍋をあたためなおして各自お召し上がりください。』という、まるで宮沢賢治のお話の一節のような展開になっていました。そして、透明な出汁の中に骨付きの鳥肉がガサガサと浮かんだだけの大きな鍋がコンロにかかっていました。あたりに調味料らしきものはなし。味が無ね〜。しかし、その日の夕食は「水炊きの鶏肉だけとごはん」だったのでした。
さて、鳥の水炊きを食べ、祭りへ行き、再び民宿へ戻ってくると、なにやら食堂のほうがにぎやかしい。
のぞいてみると、『......賢治は........』『........あの未完具合は.......』などと聞こえてくる。どうやら祭りから帰ってきたお客たちは部屋へは戻らず、民宿の人たちと共に賢治について熱く語り合うのが常らしいのです。だって、今日ここに泊まってる彼らはもちろん賢治研究家だから。
..........マズイ。
目が合うとヤバイと思い、私たちは忍者のごとく階段を上がって自室へ戻り、声を低くしてトランプをしました。
階下の熱い語らいは深夜まで続いていました。
そう、それが私の鳥の水炊きの思い出。宮沢賢治祭に行ったのに、覚えているのは鳥の水炊き。
そんなふうにどこまでも『俺が俺が』とは無縁の、宮沢賢治....。


[link:949] 2008年01月25日(金) 01:59

2003年6月16日までの日記


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