忘れ物はないね?

『忘却』とは、忘れ去ることである。
人は『忘れる』という能力がなければ、絶望で生きていけないそうだ。
しかし、私にはそれらの忘れ物が大変愛おしく、また、そういった忘却の 中に存在する、私がかつて此処に存在していた証拠のかけらのようなものが、
どこか遠いところへでも散らばって、ある日ひょっと誰かのしゃっくりを止めたり
犬に遠ぼえをさせたりできないか、などと思うのである。
だから、私はこの日記を書くことにする。
この日記はその日にあった笑えることや、怒れることや、
その日に思い出した面白いことや悲しいことを記すためにある。どんどん忘れていくTwitterはコチラ

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2010年12月11日(土)

ユーフラテス展を観にいきました。
ユーフラテスといえば、NHK教育のピタゴラスイッチや0655&2355などをはじめ、いろんな方面で大名作を次から次へと発表している、最高にクールで最高にアツい(←この言い方は自分でも恥ずかしいですけども)クリエイター集団。
私も番組やコマーシャルでちょっぴりですが関わらせていただいています。
この人たちの作品に触れるにつけ、常に『天才だ.....』とアホのように感動してしまうのですが、同時に、このユーフラテスの人たちにほど、いわゆる『天才』という言葉が無意味なように思えるのも事実。
作品自体、見たり、体験したりするのは、そりゃあ楽しく、面白く、天才的です。
でも、一言で『面白い』と言うのではなんとも言葉が足りない。ユーフラテスの作り出す作品から本当に感じるのは、もっとスゴイものなのです。
なぜなら、あの人たちから発せられる作品のすべては、あの数分、数秒が、「気の遠くなるような『きっかけ』『思いつき』『研究』『検証』『実験』『データ収集』などの連続と積み重ね」によってできあがっている(と推測、というか、確信できる)からです。
『これってなんでこうなの?』とか、『こういう場合、これはどうなんだろう?』とか、『この先これはどうなるのだろう?』など、最初のとっても小さくてシンプルな興味や疑問の灯を最後の最後まで消すことなく、探求を継続し続けるエネルギーと、継続だけじゃなくて、その探求の過程で生じる限りなく多くの可能性と方向性も同時にどんどん巻き込んで試して大きな火にしていく力、本当にスゴイ!と思います。

しかし、ユーフラテスの本当にスゴイ所はここからで、その、実際には気の遠くなるような難しい思考の連続が、まるでシンプルで簡単で、フと脱力さえするような、お茶目でナイスな作品として仕上がっている、ということ。
それを観た誰もが思わず『ふふふ』と顔をほころばせずにはいられない、こんなにもエスプリ溢れる『緻密な思考と計算の世界(?)』って、ほかにあるだろうか?
作品に仕上げるにあたってのものすごい絶妙なセンスとさじ加減もまた素晴らしく、そういうすべてのところに本当に脱帽してしまうのです。

というような、私が感じたすべては、なるほど、この展覧会の『研究から表現へ』という、わかりやすいサブタイトルに集約されていて、まさに『研究から表現へ』の道を歩き続けるのがユーフラテスという集団で、これからもどんどんその研究が素晴らしい作品となって発表されるんだと思うと、ますます楽しみで仕方がない思いがするのであります。

次々と繰り出される、ピタゴラ装置や、0655や2355のロゴ、美しく愛おしいアニメーション、ちょっと視点を変えたり、考え方を変えるだけで世界の片隅のほんのちょっとしたことがこんなにも面白くなる、ということに改めて、ほんとに改めて気がつかせてくれる作品が展示されています。
私も今まで見逃していた色々なものが観られてすごくよかった。
25日まで銀座グラフィックギャラリーでやっているそうです。
http://euphrates.jp/archives/727

[link:1242] 2010年12月19日(日) 23:58


2010年12月19日(日)

今年のクリスマスのイヴイヴ、つまり23日は、名古屋のTOKUZOでライヴをすることになりました。
上野茂都さんが毎年クリスマスにTOKUZOでやられているライヴに出させていただくのです。
上野さんとの共演は3度目でしょうか。。。
上野さんという人は、その人となりを知れば知るほど、親交を深めれば深めるほど、どんどんとその『味わいの沼』とでもいうようなものにズブズブと入っていってしまい、気がつくとその上野沼の面白さから抜けられなくなっている、という悪魔のような素晴らしいヒトなのです。
三味線と共に繰り出される上野節は一度聴いたら忘れられず、忘れられないからまた聴きたくなっちゃう。
そんなお歌を私もご一緒させていただけるのは、大変に光栄で楽しみです。
今度のライヴでは、共演の時間もたくさんありそうですから、はりきってまいります。

さて私のセットは、ドラムにけっちゃんこと高橋結子、ギターにはトバオさんこと鳥羽修、そして私、という久しぶりの3ピースです。
けっちゃんと演奏するのは少し久しぶりですが、リハで音を出した途端、またクラスメートに会ったような感じがして、とてもうれしくなりました。
バンドではないけれど、長年にわたって一緒に演奏してもらっていることから生まれる安心感、そして、一緒に生み出してきたグルーヴや息づかいが、また新鮮な形で蘇ってきました。
私の凸凹な曲に寄り添い、こんなふうに曲をカラフルに色とりどりに彩ってくれる、というのはけっちゃんにしかできないことです。
こういうシンプルな三人編成、なんていうのもたまにやるとすごく面白くていいなあ、と思います。
そしてそして、今回は上野さんに3人全員で加えていただいて、
4人で演奏、なんてコーナーもありそうです。
楽しみ!

名古屋はとても久しぶりで、もうお知らせを出したり宣伝をしたりする術も失ってしまったほどですが、以前ライヴに来てくださった方やお友達にまた観ていただけたら幸せです。
12月23日(木・祝)、名古屋今池TOKUZOでお待ちしています。



[link:1243] 2010年12月30日(木) 14:41


2010年12月30日(木)今年も一年ありがとうございました。

早いものでもう晦日になってしまいました。
毎年毎年、12月に入ると「え?もう?」と思うのですが、思った途端クリスマス、そして晦日、大晦日、そしてあっという間にお正月なのであります。
というか、師走だけでなく、12ヶ月がもう早い早い。
春かと思ったら梅雨、夏かと思えばもう金木犀、木枯らし、そして師走。びっくりです。

この一年もたくさんのご縁とつながりにめぐまれました。
この数年、このスピードの中でも改めて感じていることがあります。(まあこれは、こんなところで私が語らなくとも、世のヒトビトはとうにそんなこと百も承知だよ、というようなことだと思いますが、こういうことって、自分が実感した時が本当に気がついた時だから、遅まきながら私も「ああ、ほんと、そうだな」と思ったので今書いている、というわけです。)

それは、ほんっとーうに、この世は出会いがすべてだ、ということ。
いえ、すべてだ、というのはちょっと大げさなのですが、どんなにハイパーで高速な電脳世界になろうとも、どんなにお金や技術でなんだってできちゃう世界になろうとも、つまりは「誰かと誰かが出会ったりつながったり」しなければ何も生まれず、いろんなものすごい技術や文明はその、とってもアナログな「出会いやつながり」という原点のために動いていると言っても過言ではないと思うのです。
まあ、すべてがよい出会いであるとは限らず、時として、そのつながりがヨクナイことを生み出すためのものであったりすることもありましょうが、それでも、そこにはそれ相応の出会いがありつながりがある、というのも事実です。

私は会社や組織に属しているわけではないので、日常的に単独行動で、特に徒党を組んだり結束したり、ということとは大変遠いところで日々暮らしているのですが、単独であればあるほど、こういう出会いやつながりはすっごく強く感じられて、見えないつながりの不思議さ、というか心強さ、というようなものをひしひしと感じるのです。
とくに、この数年、ご縁のできた人たちが、実は20年ぐらいに知り合っていてもおかしくない関係にあった、とか、同じく十代の頃に私が紹介したかったけども実現しなかった人と人が去年ぐらいに、別のとてもすてきな形で出会っていた、とか、というようなことが続出していて、人と人のつながりの不思議は本当に面白いです。
なんだか、人生という時間が川のように流れているとしたら(美空ひばり?)、そこに飛び飛びに打たれていた杭に、いつのまにか板が敷かれ、ガタガタだけどもギリギリ通るのに機能する橋のようなものになり、私も含め、いろんな川岸にいた人たちがそこを行き来するようになっている、というような感じ。
でも、同時に、そうやって打ち込まれた杭は、それぞれの人がちゃんと自分で大事にしておかないと、またすぐにどこかへ流れていってしまったり、朽ちたりしてしまう、というのも実感しています。

この世のどんな人も、絶対にこのアナログな原点、人と関わることからからはじまっているはずで、まあ、人によっては、時として、悲しいことにそこから何も生まれなかった、自分は何の出会いもつながりもない、と思い込んでしまうこともあるかもしれませんし、私だって「もう自分にはなにもない」と思ってみたり、激しい孤独感に襲われたりすることもあるんですが、それでも、どこかまで川を遡ってみれば、上流の、ほんの小さな一筋の水の側には草も生えていましょうし、何者かがその水を飲んで命をつないだことも必ずあったと思う。
と、考えると、どんなにヒドイ人も極悪人に思える人も、自分で気がつかないうちに絶対どこかで誰かの何かの支えになったりしたこともあったはずで、そのことに自分が気がつくかつかないかで人生エライ違いだ!と思うのです。
極端に言えば、そのことに気がつく、ということが「感謝する」っていうことなんじゃないかなあ、とも思います。
隣のおばちゃんが柿をくれて、ありがとう、というのも、具体的な柿というモノじゃなくて、隣のおばちゃんが「柿を見て、私にくれようと思い浮かべてくれた現象」自体が本来ならば「有り難い」ことなわけで、その元になる関わりの確率とか考えたらスゴイことです。
自分が何かの時に誰かのことを思い浮かべるのと同じように、自分の知らないところで誰かが自分のことを思い浮かべることが絶対にある、いう事実を自分で認めることができて、人がそれぞれみなそうで、だから自分はいまここにいるんだなあ、と気がつけるってことが、ほんとにものすごい規模で「有り難い」ことだよなー、と思うのです。
だから、「ありがとう」って言葉を使う時には、そこんとこをちゃんとわかって言わなくちゃ、って思いました。

そんなこんなで、この一年、私と出会い、つながってくださった人たち、本当にありがとうございます。
ライヴにお運びくださった方、一緒に演奏してくださった方、ライヴに呼んでくださった方、仕事でご一緒させていただいた方、応援し支えてくださった方、心からお礼を申し上げます。
そしてまだ出会っていない人、出会うかもしれない人、直接はまったく出会わないかもしれない人、塀と塀、塀と家、家と木、木と鳥、鳥と種、種と風、風と遠くの町や国なんかでつながったり、ものすごくうまくいって私の音楽を空気の振動として遠くで受け取ってくださったりして、同時に動いたり泣いたり笑ったり誰かを思い浮かべたりしているすべての人にもありがとう。
また来年もそれぞれの場所で、一緒に泣いたり怒ったり笑ったりしましょう。
来年もどうぞよろしくおねがいいたします。

[link:1244] 2011年01月13日(木) 22:16


2011年01月13日(木)遅ればせながらあけましておめでとうございます。

年があけて、風邪をひいたり、お腹をこわしたり、なんだかんだとお休みが過ぎ、年始からはなんだかやたらとバタバタして、ご挨拶も日記更新も遅くなってしまいました。

今年も、いままでに増して、スルドくユルく、心をこめて軽やかに音楽を作っていきたいと思ってますので、みなさまどうぞよろしくお願い申し上げます。
年の始めだからといって、いつもたいして目標を立てるわけではありません。
立てるわけではないのですが、なんとなく、心掛けよう、と思うことを心に思い浮かべたりするのです。
今、心に思い浮かべているのは、『とにかく、字は丁寧に書こう』ということです。
中学まで書道を習っており、コンクールなどで賞状もいくつかいただくほどがんばっていましたが、高校あたりからいつしか、丸文字へのアコガレが強まり、その後、それがどんどんくずれ、へたくそな字になって数十年.....。
今になって、『ああ、あの時、丸文字にさえアコガレなければ....』と悔やんで見ても、なかなかにきれいな文字というのは書けないものなのです。
全く立派な上手な字でなくともよいのです。
私が好きと思える『気持ちのよい字』というのがあって、うまくなくてもよいから、せめてそういう字が書けたらいいのに、とつくづく思います。
この私の思う『気持ちのよい字』というのは、たいてい突然出会うのですが、ほとんどが、食堂とかラーメン屋さんとか、『手描きのお品書き』があるようなお店で書かれている『メニュー』です。(あ、この時期は年賀状、というのもありますね。)
どこかの町の小さな食堂とか、居酒屋さんとか、そういうささやかなお店に貼ってある黄ばんだお品書きの文字が、『サバの塩焼き定食 六二○円』『マカロニサラダ 三○○円』なんてちゃんとお習字を習って、丁寧にとても気持ちがよく書いてある文字だと、なんだかお店のご主人の心持ちが見えるようでうれしくなるのです。
別に下手だとよくない、という意味じゃなくて、その人なりのスタイルで『丁寧に書いて』あるのが見えるのが気持ちがいい。
このメニューを書くのに、背筋をのばして机に向かったであろう店主の(または店主の奥さん?)オフに、または夜な夜なちいさな年賀状に筆をとりあげて精神を統一する人々の様子に思いを馳せると、うーーーん、改めて、字を書くという行為は、しゃべる以上にモノを語るもんだなー、と思うのであります。

これは譜面もまったく一緒で、常々、譜面を書くという状況は、わりと差し迫った作業の最終段階であることが多いので、ついつい焦ってバババーと書いてしまいがちなのですが、演奏してくれる人に渡す譜面ほど、ていねいに書くべし!!!!と自分に喝を入れる年の始めでありました。


[link:1245] 2011年02月27日(日) 02:53


2011年02月27日(日)サンジャックLIVE楽しく終了しました。

ずいぶんとサボってしまいました。
今年一回目の、サンジャックでの熊坂るっちゃんとのDUOにお越しくださったみなさま、どうもありがとうございました。
花粉も飛んでるし、でも寒いし、というわりとツライこの時期、たくさんの方がかけつけてくださって、とてもうれしかったです。
久しぶりにるっちゃんと演奏できて楽しかったし、誘ってくださったサンジャックの平林さんにも、あの場を一緒に過ごしてくださったみなさまに心からお礼申し上げます。

今回は、弾き語りコーナーもあったり、DUOでもるっちゃんの曲もやったり盛りだくさんで、頭の中も心中も大変盛りだくさんになってしまったワタクシでしたが、いつもとはちょっとちがう形態の演奏を試すことができて楽しかったです。

そんな中で、るっちゃんのインスト曲「悲しみ」に詞をつける、というお題が出ていて、これがほんとうに大変でした。
「悲しみ」というものは、やっぱりどうしても言葉にはできないのです。
というか、悲しみというナニカは何か、というのを突き詰めて考えると、「偶然この世に生まれてきたと同時に消滅に向かっている」わたしたちを含めすべての物事にとって、「消えてしまう」という以上の悲しみはないわけで、その悲しみがあるからこそ、喜びがあるわけで、つまり、悲しみとは喜びであるし、喜びもまた悲しみであるし、私たちがここに在ることがすでに喜びであり悲しみでもある、ということを、改めてケッテイテキに思い知ることになり、それについて、わたしが今さら言うべきことはないのです。

でも、こんなふうな機会を与えてもらわなかったら、きっとわたしはこんなにもストレートな「悲しみ」というタイトルの曲を、音を出す以上の言葉で何かを歌う、ということはなかったかもしれません。
そして、そんなにも悩んで、「あまりにも大きくてまっすぐな」悲しみ、ということについて私から出た言葉やっぱり、本当にちっぽけでそっけなく消えていく日常の羅列であったのだ、ということを確認できないままだったかもしれません。

かなしいのはもうわかっている。
でもそれを、誰もがケッテイテキにわかっているから、わたしたちは生き、歩き、歌い、泣き、ふざけ、笑っている。
それは生まれた時には誰も教えてくれないのに、みんなちゃんとわかっているもんだな、と改めて思いました。
だから、その与えられた時間つぶしの間、いとおしくて切ないすべてのいろんなものを大事にしなくちゃ。

[link:1246] 2011年03月14日(月) 23:40

2003年6月16日までの日記


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