忘れ物はないね?

『忘却』とは、忘れ去ることである。
人は『忘れる』という能力がなければ、絶望で生きていけないそうだ。
しかし、私にはそれらの忘れ物が大変愛おしく、また、そういった忘却の 中に存在する、私がかつて此処に存在していた証拠のかけらのようなものが、
どこか遠いところへでも散らばって、ある日ひょっと誰かのしゃっくりを止めたり
犬に遠ぼえをさせたりできないか、などと思うのである。
だから、私はこの日記を書くことにする。
この日記はその日にあった笑えることや、怒れることや、
その日に思い出した面白いことや悲しいことを記すためにある。どんどん忘れていくTwitterはコチラ

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2010年11月28日(日)

しばらく日記をサボっていました。
やっぱりtwitterの速度でつぶやいていると、まとまった記録を文章にする、という行為から遠ざかりがち。
これがいいのかわるいのかよくわかりません。
もともと、この日記も、日々、忘れていくような些細なことを記すためにはじめたものですから、つぶやきとたいして変わらないといえば変わらないのですが.....。

気がつけば、あまり寒くなかった秋のはじまりから、もう残すところわずかになった師走の入り口に時は進んでいるのでありました。
近頃、今更ながらに改めて思ったことがあります。
twitterのタイムラインをながめるにつけ、『リアル』ってことにしみじみ思いを馳せてみたりして、改めて感じるソレは、
「人って『自分の時間の跡』を後から自分でリアルタイムで見ることができないんだなあ」ということ(あまりにも当たり前ですが)。
時間の跡、って言い方がおかしいかもしれませんが、つまり、『足跡』とか『筆遣い』のような、『時間の跡』です。
例えば、アルバムなどに記録された音楽は、その音楽があった時間の跡をあとから味わうこともできますが、ライヴではそうはいかない。
その場をムービーで撮影したものを後から見ることしかできません。
というか、録音されたものだって、結局録音されたものだから、その場のリアルタイムの跡を時間を遡って見たり聴いたりすることはできないのですよね。
そう思えば思うほど、『リアル』というのはほんとうに『とんでもなく「今」なんだ』とわかればわかるほど、記録をしなくても、自分では確認のできない、『音楽という空気の振動(=今)があった跡』が感じられるような音楽を演奏したいなあ、と思うようになりました。
人を感動させたい、とか、すごく楽しませたい、とかっていうことじゃなくて、もっと基本的な、『私がそこで音楽を奏でた』という『時間の跡』があるような、演奏。
もちろん、ライヴをするからには、来てくれた人が楽しかったり面白かったり、何かを感じてくれたりしてくださったらそんなうれしいことはなく、そういうライヴでありたいと思ってやるんですが、まだまだ未熟な私としては、『楽しませる』なんて、おこがましいよなあ、と思うこと、よくあるのです。
でも、『私なりの時間の跡が、音の跡が、つまり「いま "今" があったこと」が感じられるようなライヴをしよう』、というのなら、自分にとってリアルに思える。
さらには、そこに、自分だけじゃなくて、一緒に演奏してくれる人や観に来てくれる人、天気や温度や空間の大きさ、そこにいる人一人一人の気分やなにもかもの偶然が合わさって、一つの時間があって、それがその場の時間の跡になってそのうち消えていく。
その連続がつまりリアルってことなんだな、そしてそれはとてつもなくすごい確率のことばかりで、そういうとてつもなくすごい確率のことがこの世のそこらじゅうで発生して消えているんだな、と思ったら、もう居ても立ってもいられなくなるのです。

記録できることなら、その、この世のあちこちで起きているすべてのことを全部1枚1枚切り取って記録したいけど、シャッターを切る時間も時間は経って追いつかないから、最後はずーーーーーっとシャッターを押しっぱなしにする、というか映像にしちゃったとしても、その映像をみる時間も記録しないといけないから、つまり、結局『時間の跡』なんてものは見ることができないのだ!
気が遠くなりそうだけど、だからこそ、そのほーーーーーーーんとにちいさいちいさい『今』の中の、幸運なことに『加藤千晶ライヴ』なんて名前をつけられる時間は、『ちゃんと味わって消えていく「今」』でありたいなーと思うのです。
っていうか、ライヴだけの話じゃなくて、全部だけど。
ライヴや録音やおしゃべりやスケッチや散歩や買い物や、ほかにもいろいろ、その全部。
そして、悪あがきのように、時々、ほんの欠片を記録してみたり。ほんと、変テコなもんです。

遅ればせながらアップの写真は札幌のキコキコ商店でライヴ後、みんなで記念撮影したもの。この記念写真を撮るまでの短い時間のムービーも撮ったんだけど、これは「『今』の跡」がちゃんと切り取れている価値ある記録だと思いますぞ。

上左よりキコキコ商店の末木さん、チカコさん、関島さん、下左より中尾さん、漫画家の森雅之さん、加藤、トバオさん。キコキコ商店にて。

1240.jpg 640×640 (original size)

[link:1240] 2010年11月29日(月) 01:56


2010年11月29日(月)

あたらしい眼鏡をおよそ12年ぶりぐらいに作りました。
今まで、高校生の頃からずーーーーっとコンタクトに頼り切ってきて、眼鏡は寝る前か病気の時ぐらいなもので、これまでもかるーく10年ぐらいはおんなじので通しちゃってたのです。
それが最近どうも、季節のアレルギーが目に来やすくなってきちゃったようで、どうしてもコロコロしてコンタクトが入れられないことが増え、眼鏡で出かけることが多くなったのが理由です。
これまでの眼鏡はなにせ10年ものの眼鏡ちゃんですから、度は弱い、見た目も変。仕事でご一緒するような、普段私の眼鏡姿を見慣れない人々がことごとく『ドウシタンデスカ??病ミ上ガリ?』『え、どこか具合悪い?』『顔が疲れてますが?』などと斬りつけてくれる(笑)ものだから、さすがに、ちょっと、あたらしい眼鏡でもつくろかな、と思い立ったわけです。

イマドキは安くて格好のよい眼鏡をとても素早く作ってくれるお店がたくさんあるので、仕事が終わって、思い立って駆け込んだところで、すぐに様子のよい眼鏡を作ることができました。
コンタクトをしていて、ケースを忘れても、ケースまでくれて至れり尽くせりです。

あたらしい眼鏡は透明にうすい赤紫の色がはいった小さめのフレーム。
私のおせっかいカレンダーに入っている「あたらしい眼鏡」は6月の歌ですが、6月のイメージはうすい紫色。だから、眼鏡もこの色になりました。
度も少しよくしてもらいました。
フレームが小さいので、なかなか慣れるのに時間がかかりましたが、四角い枠の中からは世界がよく見えます。
コンタクトをしている時のほうが、もちろん視界は広くクリアですが、この「枠」というものから世界をのぞいているような感じは悪くありません(だってレンズが小さいから、枠が視界に入ってるんですが、枠の外は見えないんですから)。

闇夜に、前足を片方あげたまま固まってこちらを見ている猫ちゃんなどを見かけると、こちらがちょっと恥ずかしくなってしまいます。見えて当たり前のものが見えるのは恥ずかしくないのに、見えているはずなのに何かの事情で見えない状態になってるものが見えちゃうとドキドキするものなんですね。
あたらしい眼鏡はとても面白いです。

[link:1241] 2010年12月11日(土) 23:36


2010年12月11日(土)

ユーフラテス展を観にいきました。
ユーフラテスといえば、NHK教育のピタゴラスイッチや0655&2355などをはじめ、いろんな方面で大名作を次から次へと発表している、最高にクールで最高にアツい(←この言い方は自分でも恥ずかしいですけども)クリエイター集団。
私も番組やコマーシャルでちょっぴりですが関わらせていただいています。
この人たちの作品に触れるにつけ、常に『天才だ.....』とアホのように感動してしまうのですが、同時に、このユーフラテスの人たちにほど、いわゆる『天才』という言葉が無意味なように思えるのも事実。
作品自体、見たり、体験したりするのは、そりゃあ楽しく、面白く、天才的です。
でも、一言で『面白い』と言うのではなんとも言葉が足りない。ユーフラテスの作り出す作品から本当に感じるのは、もっとスゴイものなのです。
なぜなら、あの人たちから発せられる作品のすべては、あの数分、数秒が、「気の遠くなるような『きっかけ』『思いつき』『研究』『検証』『実験』『データ収集』などの連続と積み重ね」によってできあがっている(と推測、というか、確信できる)からです。
『これってなんでこうなの?』とか、『こういう場合、これはどうなんだろう?』とか、『この先これはどうなるのだろう?』など、最初のとっても小さくてシンプルな興味や疑問の灯を最後の最後まで消すことなく、探求を継続し続けるエネルギーと、継続だけじゃなくて、その探求の過程で生じる限りなく多くの可能性と方向性も同時にどんどん巻き込んで試して大きな火にしていく力、本当にスゴイ!と思います。

しかし、ユーフラテスの本当にスゴイ所はここからで、その、実際には気の遠くなるような難しい思考の連続が、まるでシンプルで簡単で、フと脱力さえするような、お茶目でナイスな作品として仕上がっている、ということ。
それを観た誰もが思わず『ふふふ』と顔をほころばせずにはいられない、こんなにもエスプリ溢れる『緻密な思考と計算の世界(?)』って、ほかにあるだろうか?
作品に仕上げるにあたってのものすごい絶妙なセンスとさじ加減もまた素晴らしく、そういうすべてのところに本当に脱帽してしまうのです。

というような、私が感じたすべては、なるほど、この展覧会の『研究から表現へ』という、わかりやすいサブタイトルに集約されていて、まさに『研究から表現へ』の道を歩き続けるのがユーフラテスという集団で、これからもどんどんその研究が素晴らしい作品となって発表されるんだと思うと、ますます楽しみで仕方がない思いがするのであります。

次々と繰り出される、ピタゴラ装置や、0655や2355のロゴ、美しく愛おしいアニメーション、ちょっと視点を変えたり、考え方を変えるだけで世界の片隅のほんのちょっとしたことがこんなにも面白くなる、ということに改めて、ほんとに改めて気がつかせてくれる作品が展示されています。
私も今まで見逃していた色々なものが観られてすごくよかった。
25日まで銀座グラフィックギャラリーでやっているそうです。
http://euphrates.jp/archives/727

[link:1242] 2010年12月19日(日) 23:58


2010年12月19日(日)

今年のクリスマスのイヴイヴ、つまり23日は、名古屋のTOKUZOでライヴをすることになりました。
上野茂都さんが毎年クリスマスにTOKUZOでやられているライヴに出させていただくのです。
上野さんとの共演は3度目でしょうか。。。
上野さんという人は、その人となりを知れば知るほど、親交を深めれば深めるほど、どんどんとその『味わいの沼』とでもいうようなものにズブズブと入っていってしまい、気がつくとその上野沼の面白さから抜けられなくなっている、という悪魔のような素晴らしいヒトなのです。
三味線と共に繰り出される上野節は一度聴いたら忘れられず、忘れられないからまた聴きたくなっちゃう。
そんなお歌を私もご一緒させていただけるのは、大変に光栄で楽しみです。
今度のライヴでは、共演の時間もたくさんありそうですから、はりきってまいります。

さて私のセットは、ドラムにけっちゃんこと高橋結子、ギターにはトバオさんこと鳥羽修、そして私、という久しぶりの3ピースです。
けっちゃんと演奏するのは少し久しぶりですが、リハで音を出した途端、またクラスメートに会ったような感じがして、とてもうれしくなりました。
バンドではないけれど、長年にわたって一緒に演奏してもらっていることから生まれる安心感、そして、一緒に生み出してきたグルーヴや息づかいが、また新鮮な形で蘇ってきました。
私の凸凹な曲に寄り添い、こんなふうに曲をカラフルに色とりどりに彩ってくれる、というのはけっちゃんにしかできないことです。
こういうシンプルな三人編成、なんていうのもたまにやるとすごく面白くていいなあ、と思います。
そしてそして、今回は上野さんに3人全員で加えていただいて、
4人で演奏、なんてコーナーもありそうです。
楽しみ!

名古屋はとても久しぶりで、もうお知らせを出したり宣伝をしたりする術も失ってしまったほどですが、以前ライヴに来てくださった方やお友達にまた観ていただけたら幸せです。
12月23日(木・祝)、名古屋今池TOKUZOでお待ちしています。



[link:1243] 2010年12月30日(木) 14:41


2010年12月30日(木)今年も一年ありがとうございました。

早いものでもう晦日になってしまいました。
毎年毎年、12月に入ると「え?もう?」と思うのですが、思った途端クリスマス、そして晦日、大晦日、そしてあっという間にお正月なのであります。
というか、師走だけでなく、12ヶ月がもう早い早い。
春かと思ったら梅雨、夏かと思えばもう金木犀、木枯らし、そして師走。びっくりです。

この一年もたくさんのご縁とつながりにめぐまれました。
この数年、このスピードの中でも改めて感じていることがあります。(まあこれは、こんなところで私が語らなくとも、世のヒトビトはとうにそんなこと百も承知だよ、というようなことだと思いますが、こういうことって、自分が実感した時が本当に気がついた時だから、遅まきながら私も「ああ、ほんと、そうだな」と思ったので今書いている、というわけです。)

それは、ほんっとーうに、この世は出会いがすべてだ、ということ。
いえ、すべてだ、というのはちょっと大げさなのですが、どんなにハイパーで高速な電脳世界になろうとも、どんなにお金や技術でなんだってできちゃう世界になろうとも、つまりは「誰かと誰かが出会ったりつながったり」しなければ何も生まれず、いろんなものすごい技術や文明はその、とってもアナログな「出会いやつながり」という原点のために動いていると言っても過言ではないと思うのです。
まあ、すべてがよい出会いであるとは限らず、時として、そのつながりがヨクナイことを生み出すためのものであったりすることもありましょうが、それでも、そこにはそれ相応の出会いがありつながりがある、というのも事実です。

私は会社や組織に属しているわけではないので、日常的に単独行動で、特に徒党を組んだり結束したり、ということとは大変遠いところで日々暮らしているのですが、単独であればあるほど、こういう出会いやつながりはすっごく強く感じられて、見えないつながりの不思議さ、というか心強さ、というようなものをひしひしと感じるのです。
とくに、この数年、ご縁のできた人たちが、実は20年ぐらいに知り合っていてもおかしくない関係にあった、とか、同じく十代の頃に私が紹介したかったけども実現しなかった人と人が去年ぐらいに、別のとてもすてきな形で出会っていた、とか、というようなことが続出していて、人と人のつながりの不思議は本当に面白いです。
なんだか、人生という時間が川のように流れているとしたら(美空ひばり?)、そこに飛び飛びに打たれていた杭に、いつのまにか板が敷かれ、ガタガタだけどもギリギリ通るのに機能する橋のようなものになり、私も含め、いろんな川岸にいた人たちがそこを行き来するようになっている、というような感じ。
でも、同時に、そうやって打ち込まれた杭は、それぞれの人がちゃんと自分で大事にしておかないと、またすぐにどこかへ流れていってしまったり、朽ちたりしてしまう、というのも実感しています。

この世のどんな人も、絶対にこのアナログな原点、人と関わることからからはじまっているはずで、まあ、人によっては、時として、悲しいことにそこから何も生まれなかった、自分は何の出会いもつながりもない、と思い込んでしまうこともあるかもしれませんし、私だって「もう自分にはなにもない」と思ってみたり、激しい孤独感に襲われたりすることもあるんですが、それでも、どこかまで川を遡ってみれば、上流の、ほんの小さな一筋の水の側には草も生えていましょうし、何者かがその水を飲んで命をつないだことも必ずあったと思う。
と、考えると、どんなにヒドイ人も極悪人に思える人も、自分で気がつかないうちに絶対どこかで誰かの何かの支えになったりしたこともあったはずで、そのことに自分が気がつくかつかないかで人生エライ違いだ!と思うのです。
極端に言えば、そのことに気がつく、ということが「感謝する」っていうことなんじゃないかなあ、とも思います。
隣のおばちゃんが柿をくれて、ありがとう、というのも、具体的な柿というモノじゃなくて、隣のおばちゃんが「柿を見て、私にくれようと思い浮かべてくれた現象」自体が本来ならば「有り難い」ことなわけで、その元になる関わりの確率とか考えたらスゴイことです。
自分が何かの時に誰かのことを思い浮かべるのと同じように、自分の知らないところで誰かが自分のことを思い浮かべることが絶対にある、いう事実を自分で認めることができて、人がそれぞれみなそうで、だから自分はいまここにいるんだなあ、と気がつけるってことが、ほんとにものすごい規模で「有り難い」ことだよなー、と思うのです。
だから、「ありがとう」って言葉を使う時には、そこんとこをちゃんとわかって言わなくちゃ、って思いました。

そんなこんなで、この一年、私と出会い、つながってくださった人たち、本当にありがとうございます。
ライヴにお運びくださった方、一緒に演奏してくださった方、ライヴに呼んでくださった方、仕事でご一緒させていただいた方、応援し支えてくださった方、心からお礼を申し上げます。
そしてまだ出会っていない人、出会うかもしれない人、直接はまったく出会わないかもしれない人、塀と塀、塀と家、家と木、木と鳥、鳥と種、種と風、風と遠くの町や国なんかでつながったり、ものすごくうまくいって私の音楽を空気の振動として遠くで受け取ってくださったりして、同時に動いたり泣いたり笑ったり誰かを思い浮かべたりしているすべての人にもありがとう。
また来年もそれぞれの場所で、一緒に泣いたり怒ったり笑ったりしましょう。
来年もどうぞよろしくおねがいいたします。

[link:1244] 2011年01月13日(木) 22:16

2003年6月16日までの日記


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