忘れ物はないね?

『忘却』とは、忘れ去ることである。
人は『忘れる』という能力がなければ、絶望で生きていけないそうだ。
しかし、私にはそれらの忘れ物が大変愛おしく、また、そういった忘却の 中に存在する、私がかつて此処に存在していた証拠のかけらのようなものが、
どこか遠いところへでも散らばって、ある日ひょっと誰かのしゃっくりを止めたり
犬に遠ぼえをさせたりできないか、などと思うのである。
だから、私はこの日記を書くことにする。
この日記はその日にあった笑えることや、怒れることや、
その日に思い出した面白いことや悲しいことを記すためにある。どんどん忘れていくTwitterはコチラ

HOME

2010年01月15日(金)

12日まで名古屋に帰っていました。3日間しかいなかったんだけど、今回はちょっと訳あって毎日病院へ行って、その他は実家で家事をする、という用事。でもその合間に30分だけ友達のお店に行き、夜中から朝までTOKUZOに行き、仕事のやりとりもして、その後東京へ帰ってきてすぐ仕事して、録音、という、普段「寝せんべい(寝っころがっておせんべいを食べているヒマなことまたはそういう類いの人、の略)」の私にしては、なんだかものすごくみっちり多忙な数日でありました。

TOKUZOは、自分のライヴができてなくても、名古屋へ帰ったたいていお正月には森田さんといづみちゃんに会いに行くのだけど、去年はぜんぜん行けなくて、ほぼ2年ぶりぐらい。で、終演後に行こうと思ってお店の前まで行くと、まだライヴ中。近くでぶらぶらと時間をつぶして、いつもとは反対側の通りから再度TOKUZOを目指して歩いていると、ちょうど森田さんといづみちゃんと数人の屈強そうな男のヒトたちががやがやと歩いてくるところへ出くわした。
聞けば、これから『今池プロレス』という催しの打ち上げだという。もし私たちがいつものように表通りからTOKUZOへ向かっていたら、TOKUZOには森田さんもいづみちゃんもいなくて、会えずに帰っていたところであった。こんなところで会えたのも何かの導きか、と、まったく関係ない私たちも『今池プロレス』の方々の打ち上げに参加させていただくことに。
かれこれもう15年ぶりぐらいに『味仙』へ行った。味仙はとにかく『酢豚』がおいしい、という記憶があって、15年ぶりにやっぱりその記憶が正しかったことを確認した。
味仙の酢豚は、いわゆる普通の酢豚ではない。ケチャップっぽくて酸っぱいいわゆる酢豚のソースとはまったくちがうのだ。揚げた豚肉に酢を配合したサラッとしたお出汁のようなもの(?)がかかっている。そして、ちょっと甘酸っぱい謎のきゅうりがそえられている。もちろんパイナップルとかはまったく入っていない。タマネギやピーマンは入ってたと思うけど、あまり目立たない。あくまでも『サラっとしたソースのかかった豚肉の揚げたもの』と『添えられたきゅうり』である。そして、とてもおいしいのである。名古屋へ行かれたら、ぜひ『味仙』の酢豚を食べてください。あ、ギョウザもおいしいです。酢豚やギョウザ以外の料理はほとんど『辛い』ので私はあんまり食べたことがないんだけど、おいしいようです。

あ、味仙の話ばかりになっちゃいましたが、おじゃました今池プロレスの方々は、マグナム今池さんを筆頭にとても『すてきなオッチャン&若者』で、プロレスと今池を心から愛していることがよーくわかり、まったく未知の世界ながらすごく楽しくお話しを聞くことができた。中でも、その場にはいらっしゃらなかった『ウルトラマン・ロビン』さんという人のことを、ほんっとうにみんなが敬愛していて、そのロビンさんという人を観てみたくなってしまった。なんでも、一度ロビンさんの試合(?)を観ると、誰もがそのパフォーマンスと人柄に虜になってしまうらしいのだ。そして、そのロビンさんのよさは観る側も年をとったりいろんな経験をして人間的な幅が出てくるにつれて、よりわかるようになり、どんどんロビンさんを好きになってしまうらしい。そんなロビンさんというのは一体どんなヒトなのか。気になる....。

その後、味仙を後にして、TOKUZOに戻り、朝まで森田さんといづみちゃんと久しぶりにがっつり飲んで話すことができた。臼井さんも居たんだけど、途中で眠り出し、いつの間にか帰ってしまった。
森田さんといづみちゃんはベロンベロンだったんだけど、話している内容がすごくよい内容で、ああ、今日ここへ来れてよかったなあ、と思った。森田さんの考える、TOKUZOのこうあろうとする形、の話はほんとうにグッとくる。森田さん的には(というかTOKUZO的には)できた当時といろいろ変わってきていることもあると思うけど、この森田さんの掲げる一番コアの部分はできた時からまったくブレてないと思う。少なくとも私が森田さんと始めて話したほぼ10年くらいは前(だったと思う)からブレてない。
それから、『人に何かを任せられる』ということについての話もたいそう心に沁みて、うーん、まだまだシュギョーが足りんなあ、と我が身を省みたひと時だった。

エコの話もそうで、突き詰めれば、地球に一番エコじゃないのは人間が存在してることなんだからなあ....と私の中で日頃もやもやと堂々巡りで考えていることも一刀両断してた。まあこの話はわざわざ書くことでもないので割愛しますが、そういういろんなことを話して、面白かった。そして、もうひとつ、TOKUZOのいづみちゃんはほんとうに愛すべきヒトだ、ということも大体この場で毎年のように確認するのだけど、今回もそうであった。実家に帰る、とか親に会う、とか友達に会う、とか、そういうものとはまた別のナニカ強い魔法のような力で、いづみちゃんに会って話すと私はものすごく『あー名古屋に帰って来た』感が200%ぐらいになるんであった。その4割はいづみちゃんの操る名古屋弁のせいもあると思うけども、あとの6割は人柄である。
そんな大好きなTOKUZOで、今年はライヴします。まだまだちょっと先だけど。

[link:1202] 2010年01月20日(水) 00:20


2010年01月20日(水)

唐突だけれども、私はロゴとか文字が書いてあるぬいぐるみが好きではない。
まったくシロウトの、個人的な好き嫌いによる見解であるけれども、どんなにユルくてかわいいキャラクターでも、服にロゴが入ってたり、首輪やリボンに名前の文字が入ってたりするぬいぐるみには何も心が動かないのに、たいしてかわいくなくても、もっさりと素っ裸で余分な飾りもロゴも文字もなにもないぬいぐるみを見るとなぜか心が動いてしまう。
ぬいぐるみばかりではない。偏った好みであるけれど、私は洋服とかバッグとかその他いろんなものについている『ロゴ』とか書いてある文字があまり好きではない。つまり、ちゃんと「そのロゴが」「そこに」あるということが綿密に計算され、フォントも含めてそれがデザインである場合ならばそうとも限らないし、「マーク」だったら好きなものもたくさんあるけれども、基本的にその本体にロゴや文字が書いてないものが好きなのだ。
洋服もバッグもキッチン用品も靴も便せんも封筒もタオルもぬいぐるみも、ああ、このロゴが入ってなければすごく好きなのに、と思うこともしばしばである。コピーライトとか著作権とかいろいろな事情はあるんだろうけれど、あくまで一人の消費者のデザインの好みのことを話してるのでそれはこの際考えないことにする。

で、先述のぬいぐるみである。
大人になった今、ぬいぐるみというものを買う機会はめったにないのだけど、子供の頃から、たまに衝動的な出会いをして買ってしまうぬいぐるみは、とにかく、ロゴとか文字とかがどこにもかいてなくて、花とか星とかリボンとかキラキラとかいった飾りのついていない『素っ裸に近い』、それでいて、『手触りがアナログっぽいもの』がほとんどで、母によると、たまたま洋服を着ているぬいぐるみだと、その洋服すら脱がせてしまって素っ裸にして持っていたらしい。

私の中の何がそうさせているのかよくわからないけれど、とにかく、そう言われてみれば、大きくなってからも、プレゼントされたもの、自分で衝動買いしたものに限らず、ぬいぐるみとかマスコットとかいうものは、とにかくはがせるロゴははがし、タグというタグを取っているのであった。
そうしてわりと大人になってからたどりついた一つの結論がある。
それは、私が「あ、このぬいぐるみはかわいいなあ!」と思うと、なぜか「SEKIGUCHI」という会社のぬいぐるみであることが多く、実際に持っているのもほとんどが「SEKIGUCHI」のである、ということであった。
といっても、商品は色々あるし、現在のラインナップについてはよくわからないのだけれど、「SEKIGUCHI」のぬいぐるみは、質感やデザインがシンプルで、まさに「本体そのもの」というデザインが多く、例えばミッフィーの服に「miffy」と書いてあったり、リボンや首輪に文字が書いてあったり、キラキラやヒラヒラやハートや星の飾りがついていたりしない(ことが多い)。
つまり「SEKIGUCHI」はとっても私の好みを知っている(いや、一方的な意見だけど)らしい。

で、先日実家に帰って驚いた。
実家には、私が2歳だか3歳だかの頃、おもちゃ売り場へ買い物につれていってもらい、初めて『どうしてもこれを買ってほしい』と大粒の涙をこぼして抱きしめ続け買ってもらった『チャムちゃん』という(ものすごい黒くなってるけど)ピンクの羊のぬいぐるみがタンスにしまってあるのだが、それがなんと『SEKIGUCHI』のものだったことが判明した。
まさに三つ子の魂百までである。あの頃から私は『SEKIGUCHI』だったのだ。
ここまできたら断言してもいい。
きっと私には『SEKIGUCHI』のぬいぐるみを見分けることができるセンサーがついているのだ。『利きSEKIGUCHI』をやったら勝つ自信がある。今度おもちゃ屋さんへ行ったらぜひやってみたい。というか、『SEKIGUCHI』へいつか見学に行ってみたい。


[link:1203] 2010年01月21日(木) 01:33


2010年01月21日(木)

きのう力説したSEKIGUCHIですが、改めてラインナップを見ると、最近は謎の『momoko DOLL』とかっていうDOLL(と書いてあるから...)なども出している様子で、これは対象は大人なのでしょうかしら。
それから、『チャムチャムベア』なるシリーズもあって、こちらはもしや、35年前に私が初めて泣き落としで買ってもらった伝説の『チャムちゃん』が進化したもののような気がしてならない。私のチャムちゃんはひつじまたはうさぎ(耳が長い)なんだけど、70年代初期?に大流行した顔がビニール製のモンチッチのような形状のものであるところも『チャムチャムベア』と共通している。
しかし!あろうことか、こちらのチャムチャムベアはキラキラとかヒラヒラのリボンをつけたりハートのアクセサリーをつけたりしているのがショック。時代は移ったか。
でも、他のぬいぐるみのところを見ると、いろんな種類のキャラクターがいるけども、総じてやはりロゴまたは文字、あるいは余分な飾りはついていない傾向。やはり、これは創業当時から、ずっと意識してそういう作りにしている、ある種のスタイルを感じる。
しかし、SEKIGUCHIが生んだスーパーアイドル、モンチッチとチャムチャムベアはロゴ入り放題 (モンチッチは『monchhichi』と書くのか。意外なスペル。ただのこどものおもちゃ、というより、本格的な外国の名前のようだ)。飾りつけ放題である。なにかやっぱり意図があるにちがいない。だけどmomoko DOLLに関しては、まだよくわからない。

[link:1204] 2010年01月24日(日) 01:47


2010年01月23日(土)

本日は、栗原さん宅のスタジオにて、某プロジェクトの歌録音。
大好きな、さじ加減絶妙のスルドくユルくイカした世界、大変楽しいお仕事でした。一枚噛ませていただけて光栄です。
詳細は告知が大丈夫になったら、詳しくお知らせします。

そして今日は前から興味のあった『mochi-cream』っていうおやつを初めて食べました(写真取り忘れた!失敗!)。
雪見大福のバリエーションがたっくさんあるやつ、というようなものでしょうかなあ。
こういう食感のものを久しぶりに食べたのでおいしかった。でも食べてる時の指先がかじかみます。

バスに乗って来たおじいさんがおばあさんに『このバスにこんなに若い人が乗っているのは珍しいなあ。普段は全員80歳以上なのに』と断言。そうか、普段はそうなのか。

そして帰りに久しぶりに『ヘブン』へ。(ヘブンに関しては日記の目次から2008年11月24日、および12月23日をご参照ください。)
何ヶ月ぶりに訪れたのだが、すごいにぎわってる。どうやら独自に5周年を祝っているらしく、店中の貼り紙がさらに輪をかけてすごいことになっており、まるで運動会か、学祭の模擬店のようだ。輸入のアボカドチップスとかも安売り。つまり独自仕入れのものに関しては勝手に安売りだ。
しかし、以前私がお気に入りだった蒜山のジャージー牛乳サンドとか、激ウマの桃ジュースとかはもうなくなってしまった。
新しい商品がいっぱい入るけども以前のものは売り切ってしまうとなかなか入らないのがちょっと残念。白トリュフオイルはまだあるかな、確認忘れましたが。
最近、埼玉のほうにも独自の道をゆく『リトルヘブン』ができて、そこはワインクーラーをでーんと店の真ん中に据え置いて、ワイン好きのお客さんにときおりテイスティングさせてくれるようだ。
とりあえず、ヘブンにお願い。お取り寄せでしか買えない山形のラスクをまた仕入れてくれないでしょうか。

さらにお知らせ。
昨年末に音楽を作ったCM、花王クイックルの『ハウスダスト除去スプレー』の放送がはじまったようです。
ピアノとクラリネットとウッドブロックのみの曲で、クラリネットを小森慶子さん にお願いしました。小森さんは昨年の秋に久住昌之さんのライヴ にチッチが飛び入りで出演させていただいた時のご縁。すてきなクラリネットを聴かせてくださっています。
ピアノは残念ながら生じゃないのですが、ちょっとクールなようなへっぽこなような、不思議な浮遊感の曲になりました。
私にしては珍しい一面を出した曲ではないでしょうかー。
テレビからお耳に入りましたら一瞬、手をとめて聴いてみていただけたらうれしいのです。


[link:1205] 2010年01月24日(日) 23:44


2010年01月24日(日)

うーん。人というのは、自分が思っている以上に思慮深く、自分が思いもよらなかったことにまで気がついて実行していたり、その行動をすることにはその人なりの深い考えがあってのことなんだ、と思う時がある。
日々の暮らしの中で、たとえば細かいことでいえば、自分の暮らしているところで、まあ直接被害をこうむってるわけではぜんぜんないんだけど、ちょっとだけ不便だなあと思っていた同じマンションの人(仮にAさん)の行動があって、でもそれは、実は別の住人(仮にBさん)の不自由を助けるための、Aさんなりのほんのちょっとした心遣いであった、ということに最近になって気がついた。
私もBさんのことは知っていたし、それなりに気を配っていたつもりだったけど、Aさんほどには気がついてなかったから、たいそうびっくりしてそのAさん気配りに感心した。
これってBさんとAさんとウチの最小単位の話ではあるけども、世界ってのは言ってしまえばそんなものの延長だから、もしこれが国だったらその誤解したまま戦争に発展したり、その反対でたまたま「あ、そういうことだったの?」って気がつくことができれば、大いに友好的関係を築けたりすることだってあるかもしれないもんね。
うーん、しかも、いろいろと世界は直接見えない者同士でもまるで何も問題なく物事が進んでしまえる状況になっているから、見えない相手同士でもできるかぎり心を配り合いたいものだ。
見えないからこそ、その見えないものを「見る」ってことが重要なわけで、見えないからこそ「見える」ということの大事さを感じるのだ。見えるものばかり見ていてもなにも見えないもんね、と改めて自分につぶやいてみる。そして、人が見えている「見えないもの」ももっと見えるといいなあ、自分、とも思う。


[link:1206] 2010年01月26日(火) 22:12

2003年6月16日までの日記


Copyright©2001-2003 Chiaki Kato, All rights reserved.
Contact Us
Do you know DonutFilms?

k-diary script by Office K.

※このページの更新情報はlastmod.txtより取得できます。