忘れ物はないね?

『忘却』とは、忘れ去ることである。
人は『忘れる』という能力がなければ、絶望で生きていけないそうだ。
しかし、私にはそれらの忘れ物が大変愛おしく、また、そういった忘却の 中に存在する、私がかつて此処に存在していた証拠のかけらのようなものが、
どこか遠いところへでも散らばって、ある日ひょっと誰かのしゃっくりを止めたり
犬に遠ぼえをさせたりできないか、などと思うのである。
だから、私はこの日記を書くことにする。
この日記はその日にあった笑えることや、怒れることや、
その日に思い出した面白いことや悲しいことを記すためにある。どんどん忘れていくTwitterはコチラ

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2006年09月16日(土)みなさんどうもありがとうございました

『ふちがみとふなとと加藤千晶/名古屋』、楽しく終了しました。足をお運びくださったみなさま、長丁場にもかかわらず最後までおつきあいくださり本当にありがとうございました。お客さんはもちろんですが、何年も会っていない人や意外な人も次々と来てくださっていてすごくうれしかった。差し入れをいただいたり、お土産をいただいたりしたのに、お目にかかれずちゃんとお礼ができなかった方、ごめんなさい。
東京と名古屋でこのライヴができて、たくさんの人に観て聴いてもらえてほんとによかったです。セッションでみんなの名前を呼び合う歌をやったんだけど、聴いていた人もそうかもしれませんが、この歌かなりクセになり止まらなくなる歌でして。偉大なマスター関島さんを『たけろう』呼ばわりできる唯一の歌でもあり、大変貴重な歌なのです。
終演後、当日戻りの関島さんを見送って、渕上さん、TOKUZOの森田さん、けっちゃん、オサムちゃんと絶好調で打ち上がっておりましたらば、(私は素面のまま)気がつけば4時半。いやはや楽しい時間というのはたちまち経ってしまうのですなあ。TOKUZOで年に何度かこうやってライヴをして、その後森田さんを囲んでむちゃくちゃなどーでもいいようなしかし一向に尽きない話をあれこれする、というのは、名古屋を離れて暮らす私にとって、とても楽しみで大事な行事なのであります。数ある名古屋弁の中でも森田さんの名古屋弁はユルさと勢いの塩梅もイントネーションもとてもナチュラル(?)で声のトーンとのバランス(?)も大変心地よく、私にとってベスト名古屋弁でもあります。この日はそこに渕上さんのこれまた心地よい関西弁が加わり、ずっと笑いっぱなしでした。

ご来場くださった方々、ふちがみとふなとのお二人、最強のサポート陣、MANDA-LA2の中野さん、TOKUZOの森田さんをはじめ力を貸してくださったすべての方々、どうもありがとうございました。


[link:712] 2009年05月21日(木) 01:35


2006年09月17日(日)

戻ってきてから作詞の仕事。大体の場合、曲でも詞でもほんとにじっとピアノやコンピュータに向かうのは最後の最後で、その前段階は、いつでもどこでも頭の中で考えてはいる。けど、そろそろ締切も近いのでじっとやるか、という頃合い。

そうそう、名古屋のライヴでは、たくさん美味しいものを食べました。
ひとつは『寿やの栗きんとん』。Uさんのお母様に差し入れでいただきました。寿やの栗きんとんは岐阜および愛知近郊ではピカ一有名で、この栗の季節、東海地区に住む者人は皆何がなんでも一度は食べなければ気がすまないぐらいの美味しい美味しいお菓子である。私ももちろん大好きで、でも本番前にはいつも食べ物を食べられないので、終わったらまっさきに頂こうと思いながらも、差し入れをみんなの前で独り占めするわけにもいかず、静かに封をあけたところ、出演者のみなさんの手がのび、あっという間に残りわずかになってしまった。
私以外のみなさんは皆ごはんを食べて帰って来たにもかかわらず、おいしいおいしいと一人で2個も3個も食べる人が出て、大好評でした。Uさんのお母様、本当にごちそうさまでした!
それからこちらも最近名古屋で有名らしい『シェ・シバタ』の焼き菓子。さらに東海市の焼き菓子店『マリエ・ドゥ・ヒロ』のお菓子。どちらもたっぷりのバターと香しい甘い香りで幸せな気分になりました。
そしてTOKUZOの『豆腐と梅じゃこのパスタ』。なんじゃこりゃー!こんなパスタは今まで食べたことがない。おいしい!
さっそく家に帰って作ってみましたが、どうも違うものになっちゃいました。TOKUZOは他の料理もどれもおいしいのです。
吉祥寺MANDA-LA2も料理はすごくおいしいのですよ。ああ、料理のおいしいライヴハウスでライヴできるのって幸せ。
実家では『ひさごや』のうなぎ。ここのうなぎもめちゃくちゃおいしいのです。
なんか気がつけば『食い倒れ名古屋万歳日記』みたいになっちゃってますが、食欲の秋はこれからですから。

さて、東京、名古屋ツアーが楽しく終了し、今年のライヴは残すところあと3本(予定)。次回は10月11日の代々木です。これの後は年末の12月28日のワンマンまでライヴはなさそうなのでぜひお見逃しなく。

[link:713] 2006年09月20日(水) 00:40


2006年09月19日(火)

仕事の一稿を出してみる。
さんまを食べた。今年初さんま。
さんまを食べるときは栗ごはんを一緒に食べたいところだけど、今日はなし。でもおいしかった。ポテトサラダを作りすぎた。
じゃがいもを3個しか使わなかったが、いもが大きすぎたようですごい量になってしまった。
足の指の薬指の爪ばっかりはがれてくるのはなぜだろう?
秋だなあ、ららららー。


[link:714] 2006年09月20日(水) 23:43


2006年09月20日(水)

この間のふちがみとふなとと加藤千晶をやった時には、これまたこっちのヒトとあちらのヒトが意外な人を通じてつながっていたりすることが大変多くて、そうやって距離も時間も関係なくいろんなところでいろんなものがつながっているという感覚がとてもうれしかった。
ライヴ当日も、遠くに住んでいてもう何年も会っていない人や、忙しくてすれ違いが多くあまり会うことのなかった人も来てくれて、一方でその日初めてお会いする人もいて、でも話していたら、その人と、今この場にはいないけどつい最近までよく連絡をとっていた人がそこに居るあの人の後輩で、はたまた、翌日に、ライヴに来てくれて15年ぶりぐらいに会うことのできた人のアトリエを訪ねると、きのう初めて紹介されたあの人と親しかったり。
こういうことがあるので、人とのご縁というのは面白い。ずうっっと会わなくても全然ご縁が切れてしまったとは思わない人はやっぱり必ずまたどこかで出会うものなのだ。たとえ15年に1度しか会わなくても(そりゃ頻繁に会えたら会えたほうがうれしいが)、その周期がその人と私の周期なのだな、と改めて思う。しかしこの年になると、どこかで必ず誰かがつながっている。。。こういう感覚ってやっぱり人間特有のものなのだろうか。例えば猿なんかの世界にも何かそういうドラマみたいなのがあるのだろうか?よくドキュメンタリーとかで『あれは3年前に群れを離れたヨサクだ』とかやってるような気がするけど。

今朝の4時までリリー・フランキー『東京タワー』を一気読み。号泣。みんな泣く泣くと言っていたが、こりゃあ泣きます。うっかり読み出してえらい目にあってしまった。しかも泣くところが長い。クライマックスのあたりはもう涙が流れるっていうより嗚咽に近くなってきて、さすがに疲れた。小さい頃、私が居間でみなしごハッチを観てるなーと思ったら突然『わーーん!!!うわーーーーーん!』とものすごい号泣が聞こえてきて思わず鍋をひっくり返しそうになった、と母が言っていたことを思い出した。リリー・フランキーという人に今までそんなに興味を持ったことはなかったし、それ以前に何をしている人なのかあんまりよくわかってなかったんだけど、テレビでたまに見かけるそういうユルーいうさん臭いイメージとのギャップもかなりあって、一本とられた。それは、いわゆる『そういうユルーいうさん臭い人がものすごい文才でもって、文壇に嵐を起こすような小説を登場させた』ということではなくて、『どこまでも普遍的な事象をどこまでも個人的なフィルターを通して、その人柄でしか表せない表現で、包み隠さず、でも決して自己満足でなく書き綴っている』ところがよかった。
明け方にあまりに泣いたので翌朝目ががすごいことになっていてまいった。なので、今日からは泣かずにすむミステリです。


[link:715] 2006年09月22日(金) 00:49


2006年09月21日(木)

名古屋ではMCでしゃべったんだけど、実は名古屋に出かける前の晩、ブロッコリーを食べようと、買って来て冷蔵庫に入れてあったブロッコリーを洗って切り分けようとしたら、ほら、例のブロッコリーによくついてる青虫がいたんです。ぎょっとして全身が硬直したが、ちょうど株の外に出ようとしているのは触らずにビニール袋の中に落とすのに成功し、安心したのもつかの間、株の中の奥のほうに2匹、いや3匹ぐらいの別の物件がうぞ、うぞ、としているのを発見。思わず絶叫。流しにブロッコリーをゴンと放り投げてしまったのですが、自分に『いや、こんなに虫が付いてるのはこれは農薬が少ないいいブロッコリーなんだから、いいブロッコリー、いいブロ. . . . 』と繰り返し暗示をかけ、外側の切れるところから切っていこうとした。しかし、包丁を持つ手が震え、どうしてもそれら3匹と地続きになっている自分の手が怖い。今は株の奥にいるが、この瞬間にも、私の包丁を見て驚いて一斉にすごいスピードで外に這い出して来て私の手まで来ちゃったらどうしよう?
更には、殺すわけにもいかないそいつらをどこに捨てるのか?誰がつまむのか?菜箸などでつまめるのか?仮につまめたとしてもつまみが甘くてスルリと菜箸を抜け、私の足の甲にでも落ちたらどうするのか?では、やはりこのまま袋に全部をとじこめ、袋の口を固くしばってゴミ箱か?でももし袋のしばりが甘くて夜中の間にゴミ箱を抜け出し、寝ている私のところまで這って来たらどうするのか?
それ以前にこれはこの状態できのう一晩冷蔵庫に入っていたわけだけど、逃げ出したやつは一匹もいないと断言できるのか?もしかすると一匹ぐらい冷蔵庫の野菜入れ場を這っていたりしたらどうするのか?そしてその這っているやつがひょんなことから冷蔵庫を抜け出し、やはり寝ている私のところにまで這って来たらどうするのか?というようないろいろな思いが一瞬のうちに頭を駆け巡り、そうこう考えている間にも、万一株の中からピョーンと飛んできたらどうするのか?など、頭のおかしい人のようになり、もう完全に限界が来て、そのブロッコリーをベランダの柵の外の隣との境目の芝生の上に置いてきてしまった。
そしてそのまま名古屋へ行ってしまった。
帰宅してブロッコリーを見てみると、それは茶黄色くなって、完全に死んだ感じになっていたけども、株の奥にいた人たちがどうなったかは確かめる術もなく、確かめる勇気もないまま現在に至っている。隣の人に見つかってないだろうか?妙な疑いをかけられたら上から落ちて来たように見せかけよう。
青虫はかわいい、と多くの人が言うし、私も写真とかで見ると、『そういわれればそう思えなくもないな』と思うのだけど、実際に自分の手に乗り移ってきそうな境界のないところで対峙するのはかなりこわい。ガラスケースの上から見るのも飛び出して来そうでこわいので、四方を絶対に私とはつながっていない状態で囲ったものを見るだけなら大丈夫かもしれない。

[link:716] 2006年09月22日(金) 23:33

2003年6月16日までの日記


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