忘れ物はないね?:2012-12-31

『忘却』とは、忘れ去ることである。
人は『忘れる』という能力がなければ、絶望で生きていけないそうだ。
しかし、私にはそれらの忘れ物が大変愛おしく、また、そういった忘却の 中に存在する、私がかつて此処に存在していた証拠のかけらのようなものが、
どこか遠いところへでも散らばって、ある日ひょっと誰かのしゃっくりを止めたり
犬に遠ぼえをさせたりできないか、などと思うのである。
だから、私はこの日記を書くことにする。
この日記はその日にあった笑えることや、怒れることや、
その日に思い出した面白いことや悲しいことを記すためにある。どんどん忘れていくTwitterはコチラ

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2012年12月31日(月)今年もどうもありがとうございました。

2012年も暮れてゆきます。
すっかり日記をさぼってしまったけれど、とにかく今年もみなさまありがとう!
応援してくださった方に、共に過ごしてくださった方に、遠くでも近くでも、いろんなところにいて、たくさんの力を私に与えてくださったすべてのみなさまに、心からお礼申し上げます。

今年は7年ぶりのアルバム「蟻と梨」をリリースしたことで、いつもライヴに足を運んでくださるみなさまや、いつも一緒に演奏したり、ライヴをさせてもらったり、いろいろ支えてくださるみなさまと、今までよりさらに強く信頼関係を築けたよう気がしています。
さらには、新しく私を知ってくださった方や、これまでのつながりからひろがってご一緒できた方もたくさんで、これもまたとてもとてもとてもうれしいことでした。
どのひともみんな大好きで、尊敬するひとたち。
それぞれの場所でそれぞれの時間をもちながら、心から大事なものを共有できているような気持ちがします。

そんな今日この頃に、とくに強く思うことは、お客さんにしても、一緒に演奏してくれるメンバーにしても、お店にしても、そうやってひとたびライヴがあれば寄って、ある人は演奏、ある人は手拍子、ある人はお料理、ある人はPAと、その空間を過ごすために、それぞれのひとたちの貴重な「時間(という名前のついたある感覚)」を費やしてくれてるんだな、ということです。
それってものすごい重大なことだな、ということです。
だからその言い出しっぺである私は、そうやって駆けつけてくれて、みなさんが費やしてくださっている時間(という名の感覚)を大事にしよう、と思うのです。

「時間」という不思議であいまいなような感覚の中で、「音楽」という不思議で所在のないようなものを作り、またそれを、目には見えないけれど、「演奏する」という形でみなさまにお届けしている、という不思議。
そして、自分と同じように、暮らし、動き、生きているほかの人の「時間」を拝借したり、もらったりするありがたさ。
「ありがたさ」はまさに「蟻がたさ...じゃなくて、「有り難さ」という文字通り、そうであることがいかに尊く貴重であることか、と思います。

考えてみれば、世界には、その「費やしたもの」が生み出した結果であるものが「形」として見えていますが、その形が生まれるためには、数え切れないほどのひとたちが費やした「時間」や「行為」や「気持ち」があって、そのほとんどは見えないなにか。
つまり、「見えるもの」というのは、「人間が生まれる前からそこにあるもの」がほとんど、あとは「ほぼ道具」のようなもの、そこで日々動いている「世の中」とはそのほとんどが見えないなにかでできあがっているのですね。
こんなことって、もうとっくの昔から言われてることなんだけれど、自分がちゃんと実感として、やっとわかったのです(アホだから)。
で、ここからがまた不思議なことなんだけれど、その「見えないもの」がいかに大事かってことを実感としてちゃんと気がつくと、今度は「見えないもの」をなんとか「見えるもの」にしようとしてできた「見えるもの」がものすごく尊く、愛おしいものに見えてくる。
中には出来上がってしまったがために新たな苦しみを生むものもあり、太刀打ちできないような出来事に、悲しみや無力感にうちひしがれることもあります。
でも、それならそれをなんとか変えていこうという見えない気持ちや力もまた生まれます。
そういうのをぜんぶひっくるめて、やっぱり、あなたやわたしがここにある間を絶望しないで進みたいです。
極端な言い方をすれば、生き物は死に向かって生きるわけですから、ある意味、生まれた時から「あきらめ」ている。だからこそ、あきらめないで進む道を探り続けるのだと思います。
そうすることが生きるということだと思う。

そして、「見えないもの」も「見えるもの」も、「やっぱりすべてのことに意味があり、それはどんなこともやっぱりすべてのことに関係している」ってことなんだな。

近頃は、世の中で「つながり」とか「つながろう」とかという言葉を聞くことが多くて、それはたぶん「あなたのことを思っていますよ、応援していますよ」という意味で使われていて、それはそれでとても大事だしよいことだと思うけれど、ほんとうは「つながろう」じゃなくて「つながってるんだよ、あたしたち」と思うのです。
「風が吹けば桶屋が儲かる」ように。
でも、桶屋ばかりでなく、途中で売れた三味線で楽しんだ人もいるでしょうし、ネズミに齧られたせいで無くしたものが出て来た人もいるかもしれない。
なぁんだ、そうか。
それがまるごと「暮らし」というものか、って思います。
そんな、自分も含んだこの愛すべきごちゃごちゃ世界が、わたしは大好きです。

「町屋の塀」は俯瞰、「マカロニスコープ」は断面、「あじさいの人」は
局所ですが、もうずっとおんなじことを歌っています。
でもべつに、とくに歌いたいことはないのです。
そしてまた、とくになにもできません。
ただ、このあちこちに無数にある世界の断面や様子をいつだってずっと見たいし、聴こえたいし、触りたいし、切り取った断片を話したり歌ったり演奏したりしていたい。
誰かに手紙を書いたり、おしゃべりをしたり、遠くをゆく列車に手をふったりするようなものです。
だから、時々、私が手をふるのを見かけたら手をふりかえしてくれたらうれしいです。
とてもとてもちっぽけで一瞬のことだけれど、それだけでたぶんそのひともわたしも、それを見たひとも、少し楽しい気持ちになるんじゃないかと思うから。

来年もみなさま元気にまいりましょう。
どうぞよろしくお願いいたします。



[link:1287] 2013年01月02日(水) 00:00

2003年6月16日までの日記


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