忘れ物はないね?:2011-03-26

『忘却』とは、忘れ去ることである。
人は『忘れる』という能力がなければ、絶望で生きていけないそうだ。
しかし、私にはそれらの忘れ物が大変愛おしく、また、そういった忘却の 中に存在する、私がかつて此処に存在していた証拠のかけらのようなものが、
どこか遠いところへでも散らばって、ある日ひょっと誰かのしゃっくりを止めたり
犬に遠ぼえをさせたりできないか、などと思うのである。
だから、私はこの日記を書くことにする。
この日記はその日にあった笑えることや、怒れることや、
その日に思い出した面白いことや悲しいことを記すためにある。どんどん忘れていくTwitterはコチラ

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2011年03月26日(土)夜のバス

自分の歌で申し訳ないけれど、「夜のバス」って歌がある。
この歌を作ったのは、もっと抽象的な、いってみれば人生?みたいなものを歌ったんだけど、今は、なにか実感として、ぼんやり、私たち、夜のバスに乗り合わせているみたいだ、思う。

こわがりな私たちをのせて、暗闇をどこまで走れるか、それはわたしたちにかかってる。

ほんとに大事なことはなかなか表には見えない、ってことは、ある程度、いろんなことを気にかけて年齢を重ねてきたヒトは、たいてい知ってると思う。
でも、だからと言って、普段から目をこらしてちゃんとじっと見極めるということをいつもいつもできてるわけじゃない。
暗いところには明るいところよりなおさら、ヘンテコなモノが潜んだり転がったりしてるし、暗闇だからそれも拾ってみるまでわかんなかったりもする。

だけど、この暗闇を、とりあえずどっかまで行かなきゃなんない今、とにかく自分の感覚を研ぎすますしかない。
たまたま乗り合わせた、それぞれ事情も考えもちがう人たちの話も聞きたいし話しもしたい。
時には「あ、ちがった」って判断をしちゃうこともあるかもしれないし、たまに、その、いわゆるヘンテコなものに魅力を感じてしまう自分もいて、自分ひとりでさえ、なかなか難儀だ。
でも、バスは刻々と進んでいるんだから、こちらもちがった、と思ったら、ちがった、といえばいい。
そうやって色々見たり聞いたり匂ったり考えたりまちがったりしても、その場その場で自分の責任で「自分の感覚に正直」でいられるようにしたい。
右でも左でも上でも下でも、どこか、自分の気持ちや感覚とは別のところへ区分けされるのはいちばんいや。
自尊心とか、そういうことではぜんぜんなくて。
知らないで巻き込まれてたり、意図せずおっとっと、と傾いたりするかもしれないにしても、それにちゃんと気がつける自分でいたいです。

でも、これが自分一人で歩いているのならまだいいんだけど、問題はこれが知らない人同士が乗り合わせたバスってところで。
あっちだ、いやこっちだ、って蛇行するし、これが正解だ、って道もない。
行き先だってイマイチ不明。
でも、これって人生と同じ。
そこに、ただ乗せられているんじゃなくて、「ちゃんと自分で乗ってる」ってことが重要なのです。
まずは静かに目を凝らそう、耳を澄まそう、と思う。


[link:1252] 2011年03月27日(日) 00:00

2003年6月16日までの日記


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