忘れ物はないね?:2011-02-27

『忘却』とは、忘れ去ることである。
人は『忘れる』という能力がなければ、絶望で生きていけないそうだ。
しかし、私にはそれらの忘れ物が大変愛おしく、また、そういった忘却の 中に存在する、私がかつて此処に存在していた証拠のかけらのようなものが、
どこか遠いところへでも散らばって、ある日ひょっと誰かのしゃっくりを止めたり
犬に遠ぼえをさせたりできないか、などと思うのである。
だから、私はこの日記を書くことにする。
この日記はその日にあった笑えることや、怒れることや、
その日に思い出した面白いことや悲しいことを記すためにある。どんどん忘れていくTwitterはコチラ

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2011年02月27日(日)サンジャックLIVE楽しく終了しました。

ずいぶんとサボってしまいました。
今年一回目の、サンジャックでの熊坂るっちゃんとのDUOにお越しくださったみなさま、どうもありがとうございました。
花粉も飛んでるし、でも寒いし、というわりとツライこの時期、たくさんの方がかけつけてくださって、とてもうれしかったです。
久しぶりにるっちゃんと演奏できて楽しかったし、誘ってくださったサンジャックの平林さんにも、あの場を一緒に過ごしてくださったみなさまに心からお礼申し上げます。

今回は、弾き語りコーナーもあったり、DUOでもるっちゃんの曲もやったり盛りだくさんで、頭の中も心中も大変盛りだくさんになってしまったワタクシでしたが、いつもとはちょっとちがう形態の演奏を試すことができて楽しかったです。

そんな中で、るっちゃんのインスト曲「悲しみ」に詞をつける、というお題が出ていて、これがほんとうに大変でした。
「悲しみ」というものは、やっぱりどうしても言葉にはできないのです。
というか、悲しみというナニカは何か、というのを突き詰めて考えると、「偶然この世に生まれてきたと同時に消滅に向かっている」わたしたちを含めすべての物事にとって、「消えてしまう」という以上の悲しみはないわけで、その悲しみがあるからこそ、喜びがあるわけで、つまり、悲しみとは喜びであるし、喜びもまた悲しみであるし、私たちがここに在ることがすでに喜びであり悲しみでもある、ということを、改めてケッテイテキに思い知ることになり、それについて、わたしが今さら言うべきことはないのです。

でも、こんなふうな機会を与えてもらわなかったら、きっとわたしはこんなにもストレートな「悲しみ」というタイトルの曲を、音を出す以上の言葉で何かを歌う、ということはなかったかもしれません。
そして、そんなにも悩んで、「あまりにも大きくてまっすぐな」悲しみ、ということについて私から出た言葉やっぱり、本当にちっぽけでそっけなく消えていく日常の羅列であったのだ、ということを確認できないままだったかもしれません。

かなしいのはもうわかっている。
でもそれを、誰もがケッテイテキにわかっているから、わたしたちは生き、歩き、歌い、泣き、ふざけ、笑っている。
それは生まれた時には誰も教えてくれないのに、みんなちゃんとわかっているもんだな、と改めて思いました。
だから、その与えられた時間つぶしの間、いとおしくて切ないすべてのいろんなものを大事にしなくちゃ。

[link:1246] 2011年03月14日(月) 23:40

2003年6月16日までの日記


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