忘れ物はないね?:2010-02-28

『忘却』とは、忘れ去ることである。
人は『忘れる』という能力がなければ、絶望で生きていけないそうだ。
しかし、私にはそれらの忘れ物が大変愛おしく、また、そういった忘却の 中に存在する、私がかつて此処に存在していた証拠のかけらのようなものが、
どこか遠いところへでも散らばって、ある日ひょっと誰かのしゃっくりを止めたり
犬に遠ぼえをさせたりできないか、などと思うのである。
だから、私はこの日記を書くことにする。
この日記はその日にあった笑えることや、怒れることや、
その日に思い出した面白いことや悲しいことを記すためにある。どんどん忘れていくTwitterはコチラ

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2010年02月28日(日)

先日YouTubeで植草甚一氏のことを取り上げたなんかの番組の映像を見て、すごく面白かったんだけど、その映像のバックで10秒ぐらい流れていた曲がすっごく気になって、なんとか全貌を聴きたいと思い、捜しはじめた。
まず、植草甚一氏の愛してやまない、というCharles Mingusかな、と思い、音の感じとかで年代の見当をつけてそのあたりのを聴いてみた。Charles Mingusは名前は知っていたけど、ぜんぜん聴いた事がなかった(でも、後でアルバム聴いたら、聴いたことある曲あった)。で、わ、Charles Mingusってこんなかっこいいのか!と思って、ちょうど外出していたOちゃんにMingusのThe Clownってのを買ってきて!と頼んだのであった。が、その時私がitunesで見てたやつはオリジナルのThe Clownとは違ってたみたいで、売ってるのはジャケットがピエロのやつしかない、4曲しか入ってないやつだ、と言われて、待ったをかけたりなんだりして道草を食ってるうちに、捜している曲はトロンボーン奏者のアルバムじゃないか、という考えも出て来て、今度はJ.J.Johnsonという人のを聴いてみた。なにせ件の流れた曲はドラム、ベース、ピアノにトロンボーンが出てきてすぐ切れてしまう。
その部分だけ聴くとカルテットに思えるけど、そうじゃないかもしれないし、トロンボーンの人のバンドなのか、別の楽器の人のバンドでトロンボーンが出て来てるのかもそれだけじゃわからないし、かかってた部分は曲の冒頭っぽいけど、本当にそうなのか、もしかすると中間部分なのかもわからない。
で、J.J.Johnsonもかっこいいんだけど、捜してるのとはちょっとちがう気もするし、件の曲には辿り着けない。で、トロンボーンの人に焦点をあてて、ちがう人のもいくつか聴いたりして、でも見つからなくて、なんだかんだと1日暮れてしまった。
その間、大掃除の時とかに本とかつい読んじゃう的なアレで、ながーい道草は楽しかったんだけど、まあ見つからないから気長に捜そう、と思いつつちょっとtwitterに書いたら、いろんなたくさんの方々がリプライをくださって、あれよあれよいう間に判明してしまった。

かくして、捜していた曲はCharles Mingusのものであったことがわかった。
途中で方向転換したから聴きもらしてたのだけど、そうやって『偶然10秒でひっかかった曲と、勘で聴いてみて、それとは別だとしても、これカッコイイ、と思ったMingusが最終的に結びつく』、というのは自分の中ですごくうれしい気がする。このうれしさは本人にしかわかんないことだと思うけれども、いいのだ、それで。
そして、めでたくMingusの「Ah Um」と、「Dynasty」の2枚組を昨日の深夜にポチッとして、早くもそれは今日手元に届き、聴き続けている。
こうしてアルバムを聴くと、捜していた曲「Jelly Roll」はやっぱりすっごい好きなんだけど(曲が進んだら他の管も出て来てセブンステットだった)、他の曲も素晴らしくかっこよくて、Charles Mingusって人はベースが素晴らしいのはもちろんだけど、作曲家としてもものすごいヒトだなあ!ということがわかった。まだぜんぜん全貌を知らないから、あくまでもこの時点での私の個人的な感想だけど、音の色遣いとか線とか、描こうとしているロマン具合(あー説明できない)が、奥の奥〜のほうで、私の敬愛する宇野誠一郎氏と通じるものがあると思う(できあがりのものはまったく別のものだけど)。そして、スピリットとしてのはみ出し具合はモンクみたいだ(表現の手法とかじゃなくてね)。

というようなユルい感想を持ちながらも、ここからはまた別の話なんだけど、改めて考えるのは、この世の中の速度と、その速度に自分がどこまで乗るか、ひいては、自分速度とは?ということ。
twitterと、例の1clickで、わからないことはすぐ判明し、さらにそれがすぐに手元にくる。このスピードと、世の中を網羅する情報のつながり!これはほんとにすごいことだと思う。
でも、重要なのはここからで、「そこに行くまでに大事なことをやって、それから行かないとコワイな」ってことだ。
私がもし最初の曲の切れっ端から、自分であれこれ当てずっぽうに聴いたり捜したりしないで、始めからtwitterでみなさんに聞いてみたとする。そしたら、あっという間にたぶん10分ぐらいで答えがわかって、またあっという間にそれが手元に届いただろう。
でも、その代わりにあの時点で自分でMingusを聴いてみたり(それがMingusの曲だったから最終的には行き着いただろうけど)、J.J.Johnsonを聴いてみたりBill HarrisやCurtis Fullerを聴いてみたり、という道草はしなかったかもしれない。教えてもらって、曲がMingusのものとわかったから、Mingusを聴いて、そこでカッコイイ!と思うに至っただろうけど、先に触れた
『偶然ひっかかった曲と、ちがうかもしれないけどこれカッコイイ!と思ったものとが同じ人のものであった!』というささやかな喜びは得られなかっただろうし、twitterの最大の頼もしさである「人とのつながり」がこれほどすごいことなんだ、という実感できるのも、自力で黙々と捜した時間があったからこそだと思う(ほんとにいろんな人が色々教えてくれてすごくうれしかったし、ありがたかった)。
だから、速度に麻痺してしまって、この速度が世の中の標準だとうっかり思ってしまわないようにしたい。そんな自分になってしまったら、なんだかよくわからないけど大変だ。
人によってはアホみたいに思えることかもしれないけど、私にとってはこの「端から見れば要領を得ないように見える自分速度」は大変大事なものだ。とはいっても、その自力だって、結局ネットで年代順にその人のアルバムとかが聴けるサイトで試聴したりしてるんだから、ぜんぜん努力というほどの話ではない。だから要するに「自分に必要な速度」って何だろう?ってことになってくる。

コレコレを使えばいくらでも早くできるのに、それには敵わなくても自分なりの手段で最大限にやってみたらこのぐらいの早さなんだよねー、次はもっと早くなるかもしんないけどねー、っていうある種バカバカしいようなことも大変大事。そしてそれらに付随する大量の無駄なことも大変大事だ。というか、それのほうが大事だ。だから、乱暴に言ってしまえば、こんなことをやっているのに、たいして言いたいことなんてないのだ(やさぐれた意味では決してなく)。でも、たいして言いたいことなんてないのに、やっぱりこんなことをやってるのである(だってやっていたいんだもの)。音楽なんて所詮は空気の振動なのだから、ロッカーに整理して置いておくものじゃない。消えてナンボだ、とも心のどこかで思っている(音楽に対する心からの敬意を込めてね。)消えるものだから、こうしてせっせと記録したり作品として残そうとししてるようなところもあるし(いや、それだけじゃないんだけど、作品を作り出す楽しみについてはここでは触れないことにする)、消えるから心に残るのだ。忘れるから覚えておこうとするし、いなくなるからいてほしいのだ。あれ、話が逸れちゃったけど、つまりこうやって考えていくと、ヒトもモノもコトも、必要最低限の「偶然出て来て、消えて行く」っていう線上の「途中」がすべてなんだもんねー、って改めて思う。

で、そんな途中にいる自分のあり方を考えてみると、もう時代は、近道をしようとすれば、どこまでも最短距離が縮まるできる世の中なのだから、その手段はありがたく装備しつつも、それが早くなれば早くなるほど、同時に遠回りや道草を標準装備する自分でいよう、とすっごく思うのだ。
しかし、ここまで書いておいて、フと考えると、何もゆっくりがよい、と言いたいのではなくて、私とちがってこの世の中の速度を標準装備して、私の何万倍もの早さで何万倍分の近道ができる分その速度でよけいな道草ができてる人もいるだろうから、つまりはその人の「自分の速度」がちゃんと確立していて、それを自分がわかっていれば、世の中の速度がどんなだって大丈夫、ということなのだな。
なんだか話が大げさになっちゃったような気もするけど、つまり今回のことで、「世の中速度」と「自分速度」のバランスの取り方がはっきりしたのでよかったなあ、と思ったんでした。

[link:1217] 2010年03月06日(土) 00:47

2003年6月16日までの日記


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