忘れ物はないね?:2010-01-24

『忘却』とは、忘れ去ることである。
人は『忘れる』という能力がなければ、絶望で生きていけないそうだ。
しかし、私にはそれらの忘れ物が大変愛おしく、また、そういった忘却の 中に存在する、私がかつて此処に存在していた証拠のかけらのようなものが、
どこか遠いところへでも散らばって、ある日ひょっと誰かのしゃっくりを止めたり
犬に遠ぼえをさせたりできないか、などと思うのである。
だから、私はこの日記を書くことにする。
この日記はその日にあった笑えることや、怒れることや、
その日に思い出した面白いことや悲しいことを記すためにある。どんどん忘れていくTwitterはコチラ

HOME

2010年01月24日(日)

うーん。人というのは、自分が思っている以上に思慮深く、自分が思いもよらなかったことにまで気がついて実行していたり、その行動をすることにはその人なりの深い考えがあってのことなんだ、と思う時がある。
日々の暮らしの中で、たとえば細かいことでいえば、自分の暮らしているところで、まあ直接被害をこうむってるわけではぜんぜんないんだけど、ちょっとだけ不便だなあと思っていた同じマンションの人(仮にAさん)の行動があって、でもそれは、実は別の住人(仮にBさん)の不自由を助けるための、Aさんなりのほんのちょっとした心遣いであった、ということに最近になって気がついた。
私もBさんのことは知っていたし、それなりに気を配っていたつもりだったけど、Aさんほどには気がついてなかったから、たいそうびっくりしてそのAさん気配りに感心した。
これってBさんとAさんとウチの最小単位の話ではあるけども、世界ってのは言ってしまえばそんなものの延長だから、もしこれが国だったらその誤解したまま戦争に発展したり、その反対でたまたま「あ、そういうことだったの?」って気がつくことができれば、大いに友好的関係を築けたりすることだってあるかもしれないもんね。
うーん、しかも、いろいろと世界は直接見えない者同士でもまるで何も問題なく物事が進んでしまえる状況になっているから、見えない相手同士でもできるかぎり心を配り合いたいものだ。
見えないからこそ、その見えないものを「見る」ってことが重要なわけで、見えないからこそ「見える」ということの大事さを感じるのだ。見えるものばかり見ていてもなにも見えないもんね、と改めて自分につぶやいてみる。そして、人が見えている「見えないもの」ももっと見えるといいなあ、自分、とも思う。


[link:1206] 2010年01月26日(火) 22:12

2003年6月16日までの日記


Copyright©2001-2003 Chiaki Kato, All rights reserved.
Contact Us
Do you know DonutFilms?