忘れ物はないね?:2007-05-17

『忘却』とは、忘れ去ることである。
人は『忘れる』という能力がなければ、絶望で生きていけないそうだ。
しかし、私にはそれらの忘れ物が大変愛おしく、また、そういった忘却の 中に存在する、私がかつて此処に存在していた証拠のかけらのようなものが、
どこか遠いところへでも散らばって、ある日ひょっと誰かのしゃっくりを止めたり
犬に遠ぼえをさせたりできないか、などと思うのである。
だから、私はこの日記を書くことにする。
この日記はその日にあった笑えることや、怒れることや、
その日に思い出した面白いことや悲しいことを記すためにある。どんどん忘れていくTwitterはコチラ

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2007年05月17日(木)

きのうは三茶へ活版に関する展覧会を見に行った。活版のよさをもっと広めて、再生していこうという主旨の展覧会。活版というと真っ先に思い浮かぶのはなぜか「銀河鉄道の夜」でジョバンニが活版所で活字を拾うアルバイトをしている場面(←単純)。
昔は印刷ってほんとに大変な頭脳と肉体両方の労働だったんだな、と思う。今でもある意味肉体労働の部分は多分にありそうですが、技術的にはずいぶん楽に幅広いことができるようになったのでしょう?
でも、実際に活版の機械とか活字とか間近でみると、やっぱりすごい。デジタルではぜったい出ない肌触りがあると思う。お友達のグラフィックデザイナーが活版を使った作品を出品していたのだけど、その活版の肌触りをすごく飲み込んで、「ただの昔のモノのよさ」を伝えるだけではない、作品としてすごくいいモノになっていた。他にもいろんな人が出していたけど、私はお友達の二人のがダントツによかったなー。
私のイメージが安直にジョバンニに結びつくように、活版というとやはり文学的なイメージというか、詩的な雰囲気が強いのか、そういう表現をしているアーティストな人も多くて、まあそれもひとつの技法と思うけど、私個人としては好みじゃないのでした。あくまでも独断と偏見に満ちた感想。

そんなこんなで、まったく別の話ですけど、また指を削っちゃった。前は包丁で小指。今回はおろし器で親指。イッテー!
いつもすごく気をつけているのに、なんてこった。おろし器も大根おろしをやってたんじゃなくて、大根サラダを作ろうと思って細めの拍子木切りカッターをつけてて、それでやった。
私はヨーチン派なので、飛び上がりながらヨーチンを塗った。小さい頃からうちにはヨーチンしかなくて、ケガをするともんんのすごーーーーーくしみるのが当たり前だったのだが、友達はみな赤チン派で、塗ってもしみないからいいなあ!!と本気でうらやましかった。母に何度赤チンを買ってくれと言っても「しみないと治らない」という無茶苦茶な理屈のもと、ヨーチンを塗られ続けた。一時世間で赤チンは水銀がナントカカントカで製造中止になった、ということがあったが(今はまた製造されているようです)、その時になってはじめて、普段赤チン慣れしている甘っちょろい近所のガキどもに「ふん、ザマアミロ」と思ったことを思い出します。
そんなことを思いながら早二十数年、私もやはり「しみないと治らない」というデタラメな観念にとりつかれ、今日もヨーチンを塗るのです。あまりにもしみそうなヒドイ傷は、傷の横の関係ないところを激しくつねりながら、そっちに気をとられるようにして塗ります(どっちみち痛いのは自分だけど)。
ライヴまでに治りますように。

[link:842] 2007年05月20日(日) 01:12

2003年6月16日までの日記


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